ついに、ついに、プロデビュー……!?

 といった高揚感はゼロだった。五十嵐くんはエイベックスに所属しているが、僕は違う。「たまたまそこにいただけ」だ。そして、スタジオ店員の仕事という「本業」を持つ立場でもある。「スタジオを去らないといけない、大変だ」という思いのほうが正直、強かった。

 契約しても食っていけない人の話、バイトしてたほうがラクだったよね、なんて話はザラだったから、期待はしていなかった。

だから、デビューの話を聞きながら僕の頭をよぎっていたのは、将来、中年になった自分が「昔、こういうの出してたんすけどね(笑)」みたいなことを言いながら、古いCDを取り出すシーンだった。

ピンチを乗り越える「もうちょっとだけ頑張ろう」

 デビューしてからの数年間、僕は「助さん」だった。持田が水戸黄門で、五十嵐くんが格さん。僕が格さんでももちろんOK。いずれにせよ、ご老公を助さんと格さんが支える、安定の編成だ。この安定が崩れたのが1999年末。そして2000年3月、五十嵐くんがメンバーを抜けた。

 彼は「助さん格さんのどっちか」に見えて、その実、ELTの牽引役だった。もともとのコンセプトをつくったのは彼だし、曲も全部彼が書いていた。その彼の脱退に、持田も僕も呆然とした。

 考えもまとまらないというのに、会社には「続ける? 解散する?」と聞かれる。そのとき、次のツアーの券売がもう始まっていた。このツアーだけでも全うしよう、と持田と話し、会社にもそう伝えた。その後は……気力が続かなくなった時点で解散だな、と思っていた。

 だがツアーに出ると、気持ちが切り替わった。ライブで、お客さんの熱気を感じるのが好きだ。ほかのミュージシャンがどうかはわからないけれど、僕はけっこう、一人ひとりお客さんの顔を見る。この人たちがCDを買って、CDで曲を気に入ってくれたからライブのチケットを買って、この場に来てくれたんだな、と思うと嬉しくなる。

 ツアーで少し気持ちを取り戻して、その流れで、アルバム制作に移った。レコーディングは突貫工事だった。年度内に出さないといけないということで、山中湖のリゾートスタジオに軟禁……いや缶詰め状態で作業した。徹夜が続き、疲労困憊の極みに達したある夜、「ちょっと休憩しよっか」と、皆で食堂に行った。

 そのときテレビから流れてきたのが、アルバムの先行シングルとしてリリースしていた「fragile」だった。番組は、この曲がチャートの1位になったと告げていた。

 あぁ、首の皮一枚つながったな――というのが、そのときの正直な思いだ。もうちょっと頑張んなきゃな、という思いも、同時に湧いてきた。