『ココルーム』に滞在していたマット・ピーコックさんに上田さんの印象を聞いた。ホームレス政策におけるアートの重要性を訴求するプロジェクト「ウィズ・ワン・ボイス」のディレクターで、国を超え10年以上の交流がある。

「初めて假奈代に会ったのは2008年。彼女はブリティッシュ・カウンシルの交換研修制度で、ソーシャルアートセクターの日本代表としてロンドンに来ていました。まず目を引いたのはその穏やかな決意です。彼女の笑顔は周りを明るくする力があり、世界を変えようとしているポジティブなパワーを感じました。

 釜芸は世界中のアートとホームレスに関するプロジェクトで最も重要なものです。すべての人たちに喜びを開放し、そして知識や学びの重要性を広げるものです」

 夏祭りの本番、ダンスパフォーマンスの発表前に、慰霊祭が行われた。「亡くなった仲間たちの分も、残った私たちは生きていく」という語りがあり、この1年間で亡くなった人たちの名前を読み上げる。その場にいるみんなで『ふるさと』を合唱した。

この1年で亡くなった仲間の名前と写真が掲げられた祭壇
この1年で亡くなった仲間の名前と写真が掲げられた祭壇
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 その後、ソケリッサ!を中心に、ワークショップに参加した釜ヶ崎の人たち、外から来た若者や旅人たち、イギリスの一団が渾然一体となり、ダンスを披露した。上田さんもその中にいる。生と死が隣り合わせの釜ヶ崎で、それぞれが自分の中から生まれてくる心の動きを抑え込まず、全身を解放して踊る様子に圧倒される。酒を手に遠巻きに見ていた数人の男性が、いつしか吸い込まれるように彼らと一緒に踊っていた。

「変な子や」と言われた思春期

 上田さんは、奈良県吉野町で生まれ育った。銀行員の父と専業主婦の母、祖母、そして2つ違いの妹とのごく普通の5人家族。豊かな自然、のどかな四季のうつろいに包まれていた。3歳から詩のようなことを話し、母が書き取った。父は仕事で忙しく無口な人で、本が好きだった。

 若いころから詩を書いていた母は、和文タイプの内職の傍ら娘たちを巻き込んで詩誌『さかみち』を発行した。

 母の味左子さん(71)は当時をこう振り返る。

「私は詩を書くのが好きやったけど、娘たちにしてみたら無理やりやったかもしれません(笑)。假奈ちゃんは本が好きでおとなしい子でしたね。誕生日には毎年、年の数だけ本を買いました。それもすぐに読んでしまうんですよ」

 上田さん自身も、幼いころのことをよく覚えている。

「小さいころは、母の気を引きたくて詩を書いていました。私は自分が考えていることを人に話して伝えるのがすごく苦手で、うまく伝えられないもどかしさがずっとありました。でも、母のおかげで詩や作文なら思うことを書けるようになった。今も書きながら思いや考えを整理しています」

 詩を書き、たくさんの本を読んでいた上田さんは野山を歩き回り、感受性豊かに成長していく。

 奈良県立の進学校に入学後は高校まで1時間半の電車通学。多感な少女にとって思春期は生きづらく、数か月して学校をサボり始める。

 しかし、母は学校に行けとは言わなかった。 

写真集の表紙を飾った17歳(左)、29歳(右)のころ
写真集の表紙を飾った17歳(左)、29歳(右)のころ

 上田さんはこの時期、アートの魅力に惹かれ始めた。ある雑誌で当時注目されていた現代美術家、嶋本昭三さんを知った。手紙を出すと本人から返事が来た。学校へ行くふりをして、西宮市甲子園にある嶋本さんのアトリエに通っていたこともある。

 高校3年生になると学校にもそれなりに通うようになった。文芸部で詩を作る傍ら、嶋本さんとの交流がきっかけでNHKの『YOU』『土曜倶楽部』という若者のトーク番組の関西版に出演するようになる。写真家の橋口譲二さんの写真集『十七歳の地図』でも被写体となった。

 高校の制服に民族衣装のようなリュックを背負い、通学する女子高生。先生たちには、見た目も行動も「変な子や」と認知され、逆にお墨つきを得て行動しやすくなった。

 母の味左子さんはテレビ出演や写真のこと、学校のことも、淡々と日常のように受け止めた。「自由にやりたいことをやればいい」と常に娘を見守り続けていた。