長女のロナヒさんは「言葉も文化もわかる、私たちのような外国人が働けるようにすればいいのに」と話す
長女のロナヒさんは「言葉も文化もわかる、私たちのような外国人が働けるようにすればいいのに」と話す
【写真】長期収容に抗議すべく被入所者が描いた絵。表情から切実さが伝わってくる

 そして安全に暮らせるオーストラリアで難民として生きようとトルコを出た。難民認定された友人がいたからだ。

 その途上で日本に立ち寄ると、埼玉県蕨市に住むクルド人の仲間から「日本でも難民認定の申請ができる」と教えられ、また埼玉県川口市や蕨市で多くのクルド人が住む事実にメメットさんは計画を変え、日本で難民認定の申請を行った。

 申請への裁決には数年を要する。その裁決が出るまでの間、入管庁は「特定活動」という在留資格を申請者に付与する。数か月おきの更新手続きが必要だが、就労可能だ。

「おかげで、私は埼玉県内で紙リサイクル企業に正社員として就職しました。翌年6月には、妻と4人の子どもを呼び寄せ、妻と長男も同じ会社に正社員として入りました」

家族全員が在留資格を失う、という悪夢

 ロナヒさん(当時8)とロジンさん(同7)の姉妹は地元小学校に入り、半年もすると日本語を覚え友人もできた。

 家族を支えたのは両親だけではない。ロナヒさんは中学時代、バレー部から文芸部に転部している。仕事で家を空ける母に代わって、8歳下の末の妹の世話をするためだ。

「バレー部は夜も土日も活動するので、料理や家事の時間の確保が難しかったんです。市役所の手続きでは、日本語の不得意な両親に付き添って通訳もやりました」

 成長するにつれ、ロナヒさんは日本の文化や習慣を自然と受け止め、日本国籍の取得を考えた。それには20歳以上で日本滞在が15年以上などの条件が必要だが、成人したら日本国籍を得て、保育士として生きていこうと決めた。高3のときだ。

 だが、その高3だった'18年3月20日、入管からの出頭命令に従い家族全員で東京出入国在留管理局に出向くと、難民認定申請と特定活動更新の不許可が告げられたのだ。

 この瞬間に家族全員が在留資格を失う。ロナヒさんは「お父さんがこのまま収容されるの!?」と泣いた。

「幸いにも、そのときは収容されませんでしたが、あまりにも突然のことに私たちは帰りの電車では終始無言でした」

 家族がこの不遇を受けた背景には、入管庁が'15年に定めた「難民認定制度の運用の見直し」、さらに'18年に定めた「難民認定制度の更なる見直し」という「運用」がある。難民認定申請を複数回行う外国人には、今後は再申請を認めず、入管施設への収容か、本国へ送還させる方針だ。

 メメットさんは来日以来、難民申請を3回行っている。最初の2回の裁決は不許可だったが、自身の難民性を示す資料などを提出して再申請を繰り返していた。だが、もう再申請は許されないのだ。