市役所の職員から直木賞作家へ

 文章力をつけて市の広報誌担当になりたいと考えたのが受講のきっかけだったが、それが、人生を変える出会いになった。

「それまで、家にいても、学校にいても、職場にいても、自分の居場所がない。この世界に生きていないなっていう感覚がずーっとあったんですよ。それが、ようやく地面に着地できたかなと。書くことによってというより、物語を作っていると、逆に現実感が得られたんです。小説を書き始めたら、次から次へと書きたいテーマが出てくる、出てくる。才能なのか、病気なのか、そこは微妙ですけど(笑)」

 当時は分厚い眼鏡をかけていた篠田さん。「1度会ったら忘れられない強烈なインパクトがあった」と話すのは、『桶狭間の四人』『本願寺顕如』などの著作がある作家の鈴木輝一郎さん(59)だ。篠田さんとは山村さんの小説教室の同期で、30年来の友人でもある。

「山村教室の2次会では、2人で猥談とか、ずーっとバカ話ばかりしていました(笑)。ちょっとここでは言えないくらい露骨な単語が飛び交っていました。せっちゃんは平気でスッピンのまま顔合わせにも出てくるし、着るものにもかまわないし。女性らしさとはほど遠い雰囲気だったけど、作家としては天才ですね。それに、ようあれだけ取材するもんだと思うくらい努力もする。天才と努力と運と三拍子そろっているタイプだと思います」

 '90年、篠田さんは『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞し、35歳で作家デビュー。市役所を辞めて、執筆に専念することにした。

 そして、作家になってわずか7年後の'97年に、『女たちのジハード』で直木賞を受賞したのだ。

'97年、直木賞受賞。1冊書き上げるために膨大な資料を集め、取材を重ねる
'97年、直木賞受賞。1冊書き上げるために膨大な資料を集め、取材を重ねる
【写真】いつも母親の隣にいた、幼少時代の篠田節子さん

 結婚したのは26歳だ。教育委員会で働いていたとき、都庁から出向してきた4歳上の夫と知り合った。

 夫は篠田さんの「表裏がない素直なところ」に惹かれたと言い、親しい人からは「似たもの夫婦」だという声があがる。

 母親の要望どおり、新居は実家の近くに構えた。

「母は“町育ちの気取り屋の男”と文句を言ってたけど、結婚したら、今度は“孫、孫、孫”と(笑)。孫が欲しいという気持ちは相当強くあったみたいですね。私も別に子どもをつくらなかったわけじゃなくて、1度できたけど流産しちゃって。その後は子宮内膜症で、そろそろまじめに不妊治療をと思っていた矢先に、新人賞をもらって、もうそれどころじゃない(笑)」

 篠田さんが直木賞を受賞すると仕事の依頼が急増。夫は都庁を辞めて、妻を支える側に回った。

「ダンナに洗濯してもらって、ご飯を作ってもらって。私は口あけて待ってまーす。フフフ」

 篠田さんがふざけた口調で言うと、隣で聞いていた夫はあきれ顔だ。

「楽天的というよりノー天気ですね(笑)。まあ、でも、そういうところがないとやっていられないし。嫌なことはすぐ忘れちゃうところは、夫婦ふたりとも似ているかもしれないですね」

 決断にためらいはなかったのかと夫に聞くと、「本音を言えば、やりたくなかったですよ」と苦笑する。

「向こうは仕事が増えると、どうしても性格的にキーキー言ってくるし、私のほうも当時は忙しい部署にいたので、夫婦間の緊張感がアンバランスになっちゃって。どこかでバランスをとらないとマズい。まあ、そういう人生もありかなと」