過保護な母との幼少時代

 大正生まれの母は看護師になり宮城県から単身上京した。父は八王子で盛んだった機屋(織物業)の長男だが戦争で没落し、戦後は織物を商品に仕立てる仕事をしていたという。

 篠田さんが生まれたのは1955年(昭和30年)。ひとり娘を大事に育てて、結婚しても地元から出さず、ずっと自分のそばに置くというのが、母の考えだった。

幼少期はいつも母娘2人で行動していた
【写真】いつも母親の隣にいた、幼少時代の篠田節子さん

 母方の従姉妹の田中ミヨ子さん(仮名=75)は、篠田さんの母の実家で育った。尊敬する叔母の後を追い15歳で上京して就職したそうだ。

「おばさんは気持ちのハッキリした人で、やることなすこと明瞭で、憧れの人でした。私が入った会社の寮に、せっちゃんを連れて面会に来てくれたんですが、本当にフランス人形みたいなかわいい女の子でした。いつもおばさんのそばでお上品に座ってニコニコしていて。おじちゃんはやさしくて温和な人でした。せっちゃんの角がなくてほんわかしているところは、おじちゃん譲りじゃないかなと思いますよ」

 母は娘が生まれると看護師の仕事を短時間勤務にして家にいる時間を増やした。買い物に行くときも、どこに行くにも娘を連れて歩いた。

「いちばんの味方はお母さんなんだから」

 これも母の口癖だ。篠田さん自身、依存性の高い「“母子カプセル”に絶対入りそうな最悪の条件」だったと認める。

 だが、2歳半のときに父が結核にかかり療養所に入ったことで、母子カプセルはまぬがれた。母がフルタイムで働いて生活を支える間、男の子が3人いる伯母の家に半年以上、預けられたのだ。同じ敷地にはやはり子どもが3人いる叔母の家があった。

「幼い子どものころだから、最初は母が恋しくて毎日泣いていました。でも、性格が形成されるいちばん大事な時期に、子だくさんな家で暮らしたことは、今考えるとすごくよかったなと思うんですよ」

 小学校に入っても母と一緒にいることが多く、周りの子に冷やかされたりした。

 どんな子どもだったのかと聞くと、篠田さんはひと言。

「空気読めない系の宇宙人」

 と、まじめな顔で答えて、大笑いした。

「思いっきり不器用で、ガールズトークにはついていけないし、そもそも何が面白いのかわからない。戦後の集団主義教育が盛んな時代だけど、常に逸脱している子どもでした。逸脱したままきちゃいましたね。ハハハハハ」

 中学に入ると担任教師からも過保護だと注意された。本を読むことが好きで成績もよかった篠田さんは進学校の受験をすすめられたが、電車通学を心配する母の意向で家から歩いて行ける都立高校へ。