小学生のころから違和感

原田 麻紀さんは、いつごろから現在の道を意識していたんですか?

麻紀 小学生のころから自分の性別に違和感があって、大人になったら芸者か女郎になりたいと思ってた。一人称も「僕」や「俺」と言えなくて、ずっと「私」って呼んでいたくらい。当時は北海道の釧路市という田舎に住んでいたし、今よりももっと理解がない時代だったから、みんな私のことを「(女の)なりかけ」って呼んでましたね。

 特に小学生って周りと違う子をいじめるじゃない? そういうときは、学校の番長に守ってもらったわ。陰では番長にキスされたり、胸を触られたりしたけど(笑)。

原田 でも、当時はそれが生き残る術だったんですね。

麻紀 そうね。無理して男っぽく振る舞うことはなかったけど、男の子が好きだとは、誰にも言えなかった。自分の中の違和感にモヤモヤしていたころに出会ったのが歌手の丸山明宏(現・美輪明宏)さん。美輪さんを見たとき「こんな生き方があるんだ!」と感動して、ゲイボーイになる決意をしたの。それから、15歳で高校を中退して家出。東京行きの列車に乗っている最中に見つかって、窓から飛び降りたわ。

原田 映画のワンシーンみたいですね!

麻紀 それだけ本気だったの。札幌にゲイバーがあることを知って、東京行きの列車を降りて「ベラミ」という札幌のクラブで働かせてもらった。入店したその日から、ステージで踊っていたわ。

原田 怒濤の展開で、ついていくのがやっとなんですけど、麻紀さんはすごく肝が据わっていると感じました。

麻紀 怖いものを知らなかったのよね。好奇心のほうが勝っていたから、何事も躊躇しなかった。19歳のときに、髭が生えてきたことに悩んでいたら、お店の先輩が「タマを取ればいいのよ」とアドバイスしてくれて、病院へ行ってすぐに去勢した。女性ホルモンの注射も打って、やれることは何でも試したわ。モロッコでの性転換手術もそうね。手術の怖さよりも「男の身体になる」ことのほうがイヤだったの。

原田 麻紀さんはお若いころからオンリーワンの道を歩いてきたんですね。芸能界の仕事はいつから始めたんです?

麻紀 私は今でも芸能界に入った覚えはないの。カルーセル麻紀の魂は日劇にあって、ストリッパーとして踊るのが仕事。劇場で稼いでいたから、ラジオや映画でもらったギャラなんて気にしたこともなかったわ(笑)。

原田 帰る場所は、劇場だったんですね。

麻紀 そうなの。あとは、週刊誌のグラビアも大切だった。下着の跡が残らないようにブラジャーやショーツははかず、いつでも裸になれるようにしていたんです。

原田 麻紀さんは本当にプロフェッショナルですね……!

麻紀 でも、そのぶんテレビやラジオはどうでもよかったから、不愉快なことがあったら本番中に帰ってたの(笑)。

 レギュラー番組を持っても夏のバカンスは絶対に行ったし、私が戸籍を変えた理由も、海外に行く機会がたくさんあったからなの。

原田 どういうことですか?

麻紀 特にアメリカ圏は私たちのような存在に厳しい時代があって、20歳のときにハワイに行こうとしたら、ビザがおりなかった。大使館に行ったら別室で裸にされて、いろいろ身体を調べられてね……。精神科に行って診断書を出してもらって、やっと1週間のハワイ滞在許可が出たの。さすがの私も、裸にされたときは泣きましたよ。