「料理を焦がしたり、風呂の栓を忘れたり、ケアレスミスでよく怒鳴られて、先輩にフォローしてもらった。先輩への感謝が自分の変化にもつながった」と今泉さん 撮影/伊藤和幸
「料理を焦がしたり、風呂の栓を忘れたり、ケアレスミスでよく怒鳴られて、先輩にフォローしてもらった。先輩への感謝が自分の変化にもつながった」と今泉さん 撮影/伊藤和幸
【写真】将棋盤とにらめっこする、小学5年生の今泉健司四段

あと1勝でプロになれる

 今泉さんは再び、アマチュアの大会に出るようになっていた。'11年夏には全日本アマ名人のタイトルを獲得。アマ王将戦でも優勝した。プロの公式戦に出場する権利を得て、勝利を重ねていった。

 介護士になって2年半後に、系列のほかの施設に異動になった。そこで介護リーダーをしていた藤川紀代子さん(68)は、自ら“応援団長”と称する。今泉さんが将棋の大会に出るため、シフトの変更を申し出ると、快く応じてフォローしてきたそうだ。

「今泉さんは本当にまじめでね、仕事もすごく一生懸命なんですよ。入浴介助や排せつ介助はちょっと雑なところがあったけど(笑)、大きな声で童謡を歌ったり、テンポよくクイズを出してみんなを楽しませたり。レクリエーション関係はもう、満点でした」

 介護の仕事は過酷だ。利用者からののしられたり蹴られたりは日常茶飯事。藤川さんも、あごを亜脱臼したことがあるという。

「それでも、怒ったらあかん、平常心を保たないと仕事ができひんのです。今泉さんも介護の仕事を通してそれを学んだことが、将棋にも役に立ったんじゃないですか」

 '14年7月、今泉さんはプロ公式戦で10勝目を挙げ、編入試験への挑戦権を得た。新鋭プロと5局を戦って3勝すればプロ棋士になれる。

 最初に2連勝し、迎えた第3局目。

「このままうまくいっていいのかな?」

 2度目の三段リーグのときと同じく、ネガティブな思いにとらわれた今泉さん。あっさり負けてしまう─。

 深く後悔して、うなだれる今泉さんに、旧知の新聞記者はこう声をかけてくれた。

「まだ何も終わってませんよ」

 次の対局は翌月だ。介護施設では、出勤してくる今泉さんにどう接すればいいか気をもむスタッフたちを、藤川さんは一喝したそうだ。

「そんなん、普通にしておいたらええんよ」

 第4局を前に、今泉さんは心の中に渦巻く感情をノートに書き出していった。

《自分にはもう何もできないのではないか》

《負けることの恐怖はすごくある》

《能力不足》

 いくつも書き、最後に浮かんだのはひとつの言葉だ。

《勝つしかない》