1973年(14歳)

左から山口百恵、森昌子、桜田淳子。“花の中3トリオ”を結成し、人気を集めた 撮影/週刊女性写真班
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  '72年にオーディション番組『スター誕生!』をきっかけに芸能界入り。'73年の楽曲『としごろ』で歌手デビューを果たす。同じ時期にデビューした桜田淳子、森昌子と並んで“花の中3トリオ”と呼ばれた。この年に発表された楽曲『青い果実』は、人気のきっかけとなった“青い性路線”(純朴な少女に大胆な歌詞を歌わせる路線)の先駆けとなる。

1974年(15歳)

女の子の一番大切なものって何ですか?
「まごころです」

'74年12月に公開された『伊豆の踊子』の撮影時の百恵と三浦友和。映画初主演を果たす 撮影/週刊女性写真班

  5枚目のシングル『ひと夏の経験』が大ヒット。「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」という歌詞を歌い、話題に。インタビューでそれは何かと問われると「まごころ」と一貫して答えたという。グリコプリッツのCMで三浦友和(当時22)と初共演を果たし、映画『伊豆の踊子』でも共演。同映画で主演を務め、演技でも評価を得た。

1975年(16歳)

16歳の誕生日パーティーにて('75年1月) 撮影/週刊女性写真班

  映画『初恋時代』に桜田淳子、森昌子と“高2トリオ”で出演。曲は『ささやかな欲望』や『夏ひらく青春』を発表。『夏ひらく青春』で2年連続、紅白歌合戦出場も果たした。ゴールデン・コンビと呼ばれるようになった三浦友和とは、映画『絶唱』で初のキスシーンが話題に。TBS系の“赤いシリーズ”として人気を誇ったドラマ『赤い疑惑』の放送もスタートした。

1976年(17歳)

「初めて自分の歌というものに
出会えたと感じました」

17歳の誕生日。炉端焼きを囲んだ場で、ケーキではなく鯛の活き造りで祝った('76年1月) 撮影/週刊女性写真班

 歌謡曲とロックを融合した“歌謡ロック”の先駆けである『横須賀ストーリー』が発表される。作詞を阿木燿子に、作曲を宇崎竜童にと、自ら指名して生まれた異色のコラボだった。それまでの「早熟な少女」から「自分の意志を持って生きる女性」へとイメージ転換成功。インタビューで「初めて自分の歌というものに出会えたのだと実感した」と語った。

1977年(18歳)

フランスのデザイナー、ピエール・カルダンからドレスをプレゼントされた('77年11月) 撮影/週刊女性写真班

 この年に発表した『秋桜』は、さだまさしが作詞作曲。“ツッパリ路線”の楽曲とは違い、嫁ぐ娘が母を思う心を歌った歌で、若者以外の年配の世代からも支持を得た。この歌で、第19回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。高校卒業とともに森、桜田との“花の高3トリオ”の解散コンサートも行われ、それぞれ自分たちが目指す道を進む再スタートを切る年となった。

1978年(19歳)

大ヒットを記録した『プレイバックPart2』のジャケット。この年のレコード大賞を受賞 撮影/週刊女性写真班

 ヒット曲『プレイバック Part2』、『いい日旅立ち』を発表。『プレイバック』はこの年の音楽賞を多数受賞し、第20回日本レコード大賞では金賞を受賞。NHK紅白歌合戦は、最年少で紅組トリを飾った。5月には、ラジオにて相手の名前は明かさないものの、「真剣に愛している人がいます」と恋の相手がいることを発表。ファンを騒然とさせる事件となった。

1979年(20歳)

「普通の女の子に戻りますと言ったとき、
戻れる人間でいたい」

8月公開の映画『ホワイト・ラブ』の撮影で、三浦友和とスペインへ('79年6月) 撮影/週刊女性写真班

 映画『ホワイト・ラブ』の撮影で三浦友和とスペインに出発すると、現地での“お忍びデート”が話題に。10月、大阪厚生年金会館で行われた『山口百恵リサイタル』で、自身の恋人について「三浦友和という人です」と“恋人宣言”を行った。翌年の引退を予言するかのように「普通の女の子に戻れる人間でいたい」という言葉も残している。

1980年(21歳)

「やり残したことは
なかったように思います」

日本武道館での最後のコンサート。「きっと幸せになります」と静かにマイクを置いた('80年10月) 撮影/週刊女性写真班

 3月、三浦友和との婚約を発表し、同時に引退を宣言。10月には武道館でファイナルコンサートが行われ、最後の歌となった『さよならの向こう側』でステージにマイクを置き、惜しむ声が響くなか舞台を去った。10月15日、引退会見に臨んだ百恵は「悔いはない」とキッパリ言い放ち、8年間という短くも鮮やかな芸能人生に終止符を打った。