欽ちゃんに言われたとおり、どんな仕事も断らずに何でもやりたいと語った小西
欽ちゃんに言われたとおり、どんな仕事も断らずに何でもやりたいと語った小西
【貴重写真】中森明菜と藤井フミヤの誕生祝いショットほか

渾身のアドリブでプールにドボン!

 '85年は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)が始まった年。おニャン子クラブの国生さゆりも大人気だった。

国生さんと僕は徒競走をしました。彼女は高校時代に短距離走の九州大会で優勝した実力の持ち主。みんな国生さんが勝つと思っていましたが、僕が勝っちゃった。走る前にプロデューサーから“お前が本気を出さなきゃ映像的にダメだ”と言われたのを真に受けてしまったんです。国生さんには今でも“勝っちゃった人だ”って言われます

 男性アイドルで輝いていたのは、吉川晃司

「肩幅が広くて、カッコよかった。彼は誰に対しても媚(こ)びない。“オレは吉川晃司だから”という感じで堂々としていた。アイドル扱いされるのを嫌がっていましたが、偉そうな態度は見せませんでしたね」

 回を重ねるごとに、小西は司会業の面白さに目覚めていく。心の余裕ができ、臨機応変の対応もできるように。

「プリンスホテルのプールでの『1986オメガトライブ』のロケ。台本には、僕がギタリストをプールに落とすと書いてありました。でも、かわいそうだから代わりにボクが落ちたんです。そういうアドリブもできるようになっていたんですね。そのときの写真は大きく引き伸ばして、自宅の玄関に飾ってあります。初心忘るべからず、という気持ちを込めて」

 小西の原点には『週刊欽曜日』での萩本欽一との出会いがある。名古屋で大学に通っていた彼は、素人発掘番組で萩本の目にとまった。

「卒業後は、教員になることが決まっていました。『欽曜日』のオーディションが終わって“お世話になりました”と挨拶したら、欽ちゃんに呼ばれて“うん、合格”と。なんだかわからないうちにレギュラーになっていました」

 それでも小西は、いずれ教員に戻るつもりでいたという。

「『24時間テレビ』で松葉杖(づえ)の女の子が5円玉をいっぱい入れた瓶を持ってきて“コニタン来年も来てくれる?”って聞いてくる。軽い気持ちで“いいよ”と言いましたが、後ろでお母さんが泣きながら“あの子の最後の夢を叶えてくれて、ありがとうございます”と頭を下げるんです。医者に“人生で最後の外出になる”と言われたと。欽ちゃんが“いい仕事だろ? お前はあの子の夢を叶えたんだ”と言うので、僕は“これからも一生懸命やります!”と伝えました。僕の人生の基本は“萩本欽一”です

 '04年に腎臓がんで余命ゼロ宣告を受けた小西は、還暦を迎えても意気軒昂(いきけんこう)。意義のある仕事をしているという思いが生きる活力になっている。