周囲の大人たちは「頑張れよ」、「しっかりな」と励ましの言葉をかけてくれたが、まだ小学6年生だった北村さんは、かえって息苦しさを感じたという。

「泣きたかったら泣いていいよと本当は言ってほしかったんでしょう。もう十分、頑張ってるよねって。その“ガンバリズム”が結局、父を追い詰め、私を泣けない子どもにしていった諸悪の根源です」

 このときの原体験がその後、北村さんの運命を左右することになる。

『少女宣言』から日雇い労働者の町へ

 そんな幼少期を送った北村さんは人に悩みを言えない子に育った。いつしか書くことで思いを吐き出し、読むことで救われた。学生時代は、芥川龍之介や太宰治など、自死した作家の本を読み漁った。

「なぜお父さんは死んでしまったんだろうという疑問が消えず、何か手がかりが欲しかったんでしょうね。遺書もない。私や母のことをどう思ってたんだろう、愛されていなかったのかなとか。そういう不安は母の前では見せられず、夜中に布団をかぶって口を塞いで泣いていました。自分のつらい感情は、日記みたいなノートに吐き出していた。死にたかったし、狂いたかったし、逃げたかったです」

 北村さんは、京都にある短期大学に進学したが、ライターを目指して半年で退学。東京の日本ジャーナリスト専門学校へ入学し、報道写真家・樋口健二氏らの手ほどきを受けた。自由テーマでの写真撮影では、上野公園のベンチで眠るホームレスを被写体にした。意識はしていなかったというが、すでにそのころからホームレス問題に関心があったのかもしれない。

「そのときは若気の至りで、“被写体に1歩踏み込め”という指導どおりに、毛布をかぶっている野宿の人に近づいてシャッターを切っていました。いま考えたら、ものすごく失礼なことしていました」

 卒業後は出版社を転々としフリーに。24歳で『少女宣言』(長征社)を出版した。10代の少女200人のインタビューをまとめた本で、たちまち話題になった。続いて、1980年代半ばから'90年代に一世を風靡した女性ロックバンド「プリンセス・プリンセス」のインタビュー集『たった5つの冴えたやりかた』(シンコー・ミュージック)がベストセラーに。

北村さんがデビュー作『少女宣言』を出版したころ。駆け出しのライターだった北村さんのもとには10代の少女たちが連日押しかけ、悩みを打ち明けていた
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 ライターとしての駆け出し時代は順風満帆だったが、28歳のとき、日雇い労働者が集まる大阪市西成区にある釜ヶ崎との接点が生まれる。それは1本の電話からだったと、北村さんは振り返る。

「大阪のフリースクールの職員から、釜ヶ崎に来ないかと誘われたんです。中学生の女の子が在学中に妊娠、出産して、週刊誌で叩かれている。だから、その子を守る記事を書いてほしいと」

 北村さんが釜ヶ崎に足を踏み入れた1990年秋はちょうど、日雇い労働者による暴動が勃発した時期と重なった。その爪痕が残る街で3畳ひと間のアパートを借り、NPO法人「子どもの里」が実施する夜回りや炊き出しなどの活動に参加した。

「釜ヶ崎では通りすがりの日雇い労働者から卑猥な言葉を投げかけられたり、唾を吐かれたりしたこともあります。警官からは“おっさんらにやらせてんのやろ!”と暴言を吐かれ、抗議のビラを撒きました。それが発端となって機動隊が出動してくるほどの騒動に発展しました」

 そんな人間臭さにあふれた生活を半年間続けた後、北村さんは、東京へ戻る。