現場での取材を終えた北村さんは、代表理事を務めるHCネットなど関連4団体で、ホームレス問題の人権教育の実施などを求める要望書を加害者が通う朝日大学、県教委、市教委に申し入れた。

父に浴びせた「ひと言」の重み

 なぜホームレス襲撃事件の、それも被害者だけでなく、加害者の問題にも向き合い続けるのか。

「実は私自身も加害者の意識があります。自分の間違いで大切な人を追い詰め、死なせてしまったという罪悪感、自責の念に長くさいなまれてきました」

 滋賀県彦根市出身の北村さんは、幼いころに両親が離婚し、物心ついたときには、父方の祖母に預けられ、その後は叔父夫婦のもとで育った。

小学6年生の北村さん(いちばん左)。周囲の大人たちからは常に「しっかり者の年子ちゃん」を期待されていた
小学6年生の北村さん(いちばん左)。周囲の大人たちからは常に「しっかり者の年子ちゃん」を期待されていた
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 父は若くして材木店を経営していたが、借金の保証人になって家を抵当に取られ、蒸発した。残された母は、北村さんを祖母に預けて実家へ戻り、一家は離散した。

 ところが北村さんが6歳のとき、京都で洋裁の仕事を身につけた母のもとへ引き取られることになる。

「後々知った話ですが、実はその間、蒸発した父はホームレス状態だったと。住み込みの職を転々として岐阜で行き倒れになり、救急車で病院に運ばれたと聞いています」

 北村さんが小学2年生のころ、母親がそんな状態の父親を見かねて引き請け、京都のアパートで3人暮らしが始まる。父は隣町の工場で働けるほどに回復、母は洋裁の内職を続け、家族3人手をつないで銭湯へ通った。

 そんな生活が一変したのは、小学4年生のとき、市営団地への入居が決まったことがきっかけだった。風呂なしアパートから高層団地の11階3DKに格上げされた。

「夢のような団地に引っ越したんです。ところが父の通勤時間が往復3時間になってしまい、それでも頑張っていたのですが、やはり身体に負担がかかってしまったのか、腎臓を患って入院しました」

 父は、かつて行き倒れて病院に搬送された当時の記憶がよみがえったのか、「病院は嫌だ、嫌だ」と言い出し、自宅に戻ってきてしまう。まだ幼かった北村さんには、父が病院嫌いになる理由がわからず「どうして病院に行かないの?」「どうして頑張れないの?」と責め立ててしまった。

 すると父はポロポロと涙を流し、「すまんなあ。お父さんもう頑張れへんのや。病院行くぐらいなら、あそこから飛び降りて死んだほうがましや」と、ベランダを指さした。その姿に驚いた北村さんは「わかった。頑張れなくてもいいから。死ぬなんて2度と言わんといて」と父の手を取り、ともに涙を流した。

赤ん坊の北村さんを抱っこする父。心やさしく、男前と評判だった
赤ん坊の北村さんを抱っこする父。心やさしく、男前と評判だった

 それからしばらくして父がまた、「死にたい」と漏らしたとき、北村さんは思わずこう口走ってしまった。

「そんなに死にたかったら死んだらええやん!」

 その数週間後のこと。北村さんが学校で授業を受けている最中、父が亡くなったことを知らされる。

 実は団地の11階から身を投げていたのだ。

「まさか本気で言っているとは思っていなかった。死んだらええ、あのときのひと言が、何百回も何千回も反芻しては悔やまれて……。弱くても頑張れなくてもいい、生きていてくれるだけでよかったんやと思い知りました。それでも母を支えて頑張らないといけないと思い、母の前では絶対に涙を見せませんでした」