車いすの研究で世界大会へ

「自分は理由がないと頑張れない。なんで勉強しなきゃいけないのか。なんで制服を着なきゃいけないのか。なんで毎日決まった時間に食事をしなきゃいけないのか。誰も答えてくれない。たまに学校に行ってテストを受けても壊滅的。5教科合計で100点にも満たない。衝動的に飛び降りて楽になりたいと思うから、バルコニーには近づかないようにしてました」

 そんな吉藤さんにとって、久保田先生がいる高校に入ってロボットを作るという目標は、頑張る理由になった。得意ではない勉強にも少しずつ向かえるようになった。

「これまで、人との出会いと憧れが、私の人生を変えてきました。自分を傷つけるのも人だけど、自分が何かをしたいと思ったり、自分とまったく違う価値観や気づきを与えてくれたりするのは、やっぱり人との出会いだった」

 奈良県立王寺工業高校に入学し、久保田先生を師匠としてものづくりに没頭するようになった高校2年生。さらに大きな転機が訪れる。

 自由研究のコンテスト『JSEC2004(高校生科学技術チャレンジ)』に車いすの研究で出場し、特別賞と優勝の同時受賞。さらに、アメリカのアリゾナ州で開催された科学のオリンピックとも呼ばれる世界大会『ISEF(インテル国際学生科学技術フェア)』でも3位に入賞した。

16歳当時。研究開発した「電脳車椅子」は世界でも認められた
16歳当時。研究開発した「電脳車椅子」は世界でも認められた
【写真】有名な問題児だったという小学生時代の吉藤さん

 授賞式後の交流会で折り紙を披露し仲よくなったファイナリストと研究について話をしているときのことだ。

「俺はこの研究をするためにこの世に生をうけた。そして死ぬ瞬間までこの研究を続けるつもりだ」

 目を輝かせてそう話す外国の高校生。そんな学生に、日本で出会ったことはなかった。

「車いすの研究は一生をかけてやりたいことだと思えなかった。でも、彼のように思うことができれば、生きる理由に悩まなくてすむ。自分は一体、何をしたいんだろう。自分が死なないための理由を知りたい。自問自答しながら日本に帰ってきました」

高校生に頼るしかない世の中

「世界は広かったなあ」

 研究に人生を懸けようとしている同年代の存在に触れ、何かが吉藤さんの中で動き始めていた。

 世界3位となって以降、取材が殺到。テレビや新聞で紹介されると、道具や車いすを作ってほしいという相談の電話が王寺工業高校に相次いだ。

「足腰が弱いので家の中で自由に移動できる車いすを作ってほしい」

「娘に頼りたいけど、迷惑なんじゃないかと思って電話もできない」

「大企業に電話しても作ってくれない。高校生なら作ってくれるんじゃないかと思った」

 どの相談からも、高齢者の孤独のつらさが伝わってきた。吉藤さんはその声を聞いて、不登校だったころの自分の苦しさが自分のものだけではないと知ったという。

「それまで、世の中はわりと完璧にできていて、自分は人様に迷惑をかけないようにほそぼそと生きていくしかないと思ってた。そもそも、自分が世の中のために何かできるなんてまったく思っていなかった。だけど、おばあちゃんが高校生に頼るしかない世の中なら、もしかしたら自分にも何かできるかもと考え始めた」

 高齢になれば、あのおばあちゃんのようにまた孤独を感じるかもしれない。そこで1つの問いが明確に浮かんだ。

「孤独ってどうやったら解消できるんだろう」

 17歳のとき、「孤独の解消」に生涯をかけようと決めた。そして、自分の生涯があと何年あるかを考えた。

「体調は相変わらず不安定だったから、30歳までは生きようと設定しました。いつ終わるかわからない持久走よりも、あと1周、あそこの電柱まで、と思ったほうがなんとか走れる。そんな思いで自分の人生の30年計画を立てました」

 その後、30歳までの13年を振り返ってみれば計画どおりにはまったく進んでいない。でも、終わりを決め、死を意識することで、1日1日を悔いなく生きることができた。

「私の友人や後輩には、30歳まで生きられなかった人もいます。でも私は幸い30歳まで生きた。今は、人生40年だと思って、あと7年で何をするかを考えています」