'96 年、東京・柴又で上智大学に通う小林順子さんが何者かに殺害され、現場となった家は放火された。事件から25年がたつがいまだに犯人は逮捕されず未解決のままだ。平穏に過ごしていた家族はその日から一転、“被害者遺族”と呼ばれ、暮らしを変えざるをえなくなる。父親の小林賢二さんはつらい現実から目をそらさず闘い続け、ついに時効撤廃を勝ち取った。怒濤の日々をどう乗り越えてきたのか――。

いつもの景色がトラウマに

 東京下町の住宅街を車で走っていた。車窓から見えるのは何の変哲もない景色のはずだが、後部座席に座るその老紳士は、動揺を隠しきれなかった。

「あの日、駅前からタクシーに乗って現場に向かったんです。車に乗ってここを走ると、その時と目線の高さが同じになるから、否応なしに思い出すんです」

 それは、当時から今も引きずっている心象風景だった。

「パトカーも救急車も消防車もずらっと並んで、野次馬の人垣もできていて……」

 脳裏に深く刻み込まれ、決して忘れることはないあの瞬間が、現場へ近づくにつれて一気にフラッシュバックする──。

 老紳士は、殺人事件被害者遺族の会「宙の会」(事務所・東京都千代田区)の会長、小林賢二さん(75)である。賢二さんの次女、順子さん(当時21)は、上智大学4年生だった1996年9月9日夕、東京都葛飾区にある自宅で何者かに殺害され、火を放たれた。これまでのべ11万人以上が投入された警視庁の捜査も実を結ばず、犯人はいまだ見つかっていない。

 その現場は、昭和を代表する映画『男はつらいよ』の舞台として有名な柴又駅から徒歩10分ほどの閑静な住宅街にある。現在は金町消防団第8分団の格納庫が立っており、そこに当時の面影はない。敷地の一角には胸の高さほどの祠があり、隣の花壇に咲くコスモスが風に吹かれて揺れていた。それらを指さし、賢二さんが、思い出すように語った。

「あの子が好きだった花です」

 祠の中には、遺族の思いが託された「順子地蔵」が手を合わせて現場を見守っており、傍らにはポテトチップスなどのお供え物が、さりげなく置かれていた。

「誰だかわからないんですけど、こうしてお供えしてくれるんです」

 かつてこの敷地に立っていた賢二さんの自宅は、放火で一部焼けてしまった。

「消防団が2階に駆け上がったところ、遺体があったからびっくりしたと。間口わずか2間の、うなぎの寝床のような場所ですが、事件前日まで、親子4人がささやかな幸せを感じながらの生活がありました。それが一瞬にして奪われてしまったのです

 以来、賢二さんはこう自問し続けている。

「あれからいまだに解決していません。誰が? なぜ? なぜわが家が? なぜ娘が?」

 私が事件の取材を始めたのは、今から2年ほど前の出来事がきっかけだった。

「警視庁捜査一課です」

 日曜日の朝、インターホンのモニター画面に、そう勢いよく話しかける男性の姿が映っていた。続けて警察手帳を差し出された。

「上智大生殺害事件の捜査でうかがいました」

 都内のマンションにいた私は、朝っぱらから何事かと驚き、もう1度警察手帳を見せるよう伝えた。だが、相手は確かに刑事のようだ。

 ドアを開けると、眼鏡をかけた私服姿の中年男性が立っていた。あらためて事情説明を受け、DNAサンプルの採取に協力を求められた。断ると私の友人、知人にも事情聴取が及ぶかもしれないと言われ、協力することにした。

 なぜ私のところにまで、捜査の手が及んだのか。

 それは私が、順子さんと同じ上智大学外国語学部英語学科の卒業生だからだろう。私は2年後輩で面識はなかったが、東南アジアの地域研究をするゼミは同じだった。かつ、順子さんは将来、ジャーナリストを目指し、私が現在、ノンフィクションライターとして活動していることも関係していたかもしれない。いずれにしても、発生から間もなく四半世紀が過ぎようというときに、「まだ地道な捜査を続けていたのか」と驚いたのが、正直な感想だった。刑事から名刺をもらった私はすかさず、

「今度はこちらから連絡をするかもしれません」

 と伝え、間もなくそのとおりの展開になった。