ひとりで生きると決めた猪突猛進の50代

 アカデミックガウンを着て、角帽を投げる─。まるで、映画のような卒業式を終えた平野さんは日本に戻り、お菓子教室を開いた。場所は実家のキッチン。ひとりでいることが嫌いな母も、多くの生徒が出入りすることを気持ちよく了承してくれた。

「ニューイングランドのケーキなんだから、開拓時代の格好をして教えては?」

 アナ先生からアドバイスを受け、レッスンは金髪のウイッグをつけて行った。

今もレシピを習っているという恩師・シャロルさんと
今もレシピを習っているという恩師・シャロルさんと
【写真】今も平野さんがレシピを習い続けているという、恩師・シャロルさんと

 開業当初の生徒は2、3人だけ。しかし、家の外に看板を出しておいたところ、京都新聞の記者が面白がり、紙面で大きく取り上げてくれた。

 その効果は絶大で、一気に150人もの生徒が押し寄せた。ひとりでも生きていけると手ごたえを感じたのはこのころだ。

 一方で、母のキッチンを借り続けるわけにはいかないという思いもあった。1クラスで6人、1日3クラスで週に5日教えており、多くの生徒から「こんな美味しいケーキだったらお店をやりはったら」という声も上がっていた。

「それで、その気になって、京都に教室兼店舗のお店を出すことにしたんです」

 京都の中心地・高倉御池に出した『Cafe&Pantry松之助』は町家を改装したもの。大好きだったニューヨークの『ディーン&デルーカ』にならい、白、黒、グレーを基調にしたモダンなデザインにした。

 京都の店が安定したのを機に、母が生まれた東京に店を持つ夢をかなえるべく上京。目黒のアパートで住居兼教室をスタートさせた。そのころの生徒のひとりが、現在、平野さんの右腕として「平野顕子ベーキングサロン」で講師を務める三並知子さん(52)だ。

「新聞の見出しが、“おかし(菓子)な英会話教室”で、アメリカンケーキを作りながら英語を学べるというものだったんです。興味をそそられ、すぐに予約を取りました。

 先生の教え方はとにかくテンポがいいし、美味しいケーキを作ってほしい!魅力を伝えたい!という熱量がハンパなく強いんです。生徒さんの手元、ボウルの中の状態を瞬時に見て、どんなに離れた場所からも檄が飛んでくる。先生の観察力はすごいです」

「英会話も学べるお菓子教室」と新聞で紹介され、話題に
「英会話も学べるお菓子教室」と新聞で紹介され、話題に

 お菓子作りの道具を車に積み込み、片道8時間かけて東京・京都間を往復する日々が何年も続いた。

 小売店としては、横浜のアウトレットモールに出店。昼間はお菓子教室をこなし、夜にケーキを焼いて、朝売り場に持っていくハードスケジュールをこなした。店名はまだ『松之助』ではなく、『ミセスコネチカットケーキハウス』だった。

「ニューイングランドのケーキだから店名は横文字だろうと思っていたら、弟が『じいさんの名前をつけたらどうや』と言うんです。インパクトがあるし、誰にでも覚えてもらえるやろって。これには感謝ですね」

 その後、知人3人と赤坂に共同経営の店を出すが、意見が合わず、袂を分かつことになった。そして巡り合ったのが、今の東京店がある代官山の空き物件だ。申し分ない物件だったが、その家賃は分不相応に思われた。

「開高健さんってもともとサントリーの社員だったじゃないですか。そのエッセイに、サントリー創業者・鳥井信治郎さんの“やってみなはれ、やらなわかりまへんで”という言葉があって、印象に残っていたんです。

 鳥井さんは大阪の方ですから、京都出身の私が言うなら、もう少し柔らかい響きの“やってみはったら”。この言葉が浮かび、一昼夜考えてその物件を借りることにしました」

 新しい店舗は、いつか大好きなニューヨークに店を持ちたいという願いを込めて、『MATSUNOSUKE N.Y.』と名づけられた。