麻酔科医としてのスタートと挫折。そして―

 当初は麻酔科医としての強い情熱も持てず、ただ忙しくすることで心を埋め合わせることもあった。研修医時代には、転勤で5つの県と6つの総合病院を渡り歩き、'96年には自ら転勤届を出し、日本有数の手術症例数を誇る聖隷浜松病院に赴任する。

「ここで修業したら、最短で自分が成長できる、そう確信しました。聖隷浜松病院では、全国の臨床麻酔科医が平均1日2人のところ、1日15人の麻酔を担当するんです。赴任当初は、あまりのレベルの高さにショックを受けました」

 これまで培った麻酔学の知識がまったく通用しない。次第に追い詰められていき、簡単な点滴すら失敗するように。

「やぶれかぶれになったとき、恩師に“こんなに麻酔をかけてばかりでしんどくないんですか?”と聞いたんです。すると先生は心から“麻酔が好きだから”と言うんです。目からウロコでしたね。

 それまで医者になることは、私にとって食べていくための手段、仕事はツライことでしかなかった。でも仕事を愛して、生きがいとして生きている人がいることを知ったんです。それに先生もスタッフも無力な私を見捨てず寄り添ってくれた。できないなら学び、努力すればいいと気づかされました。恩師との出会いを通し、身をもって仕事への愛を教わりました」

 人さまの役に立ちたい、と心底思うようになった。

「専門医もいない田舎には、今でも適切な医療を受けられない人がいる。うちの叔母も腰が痛いと湿布をずっと貼っていましたが、実は膵臓がんだった。がんがわかったときは末期、すでに手遅れでした。そういった医療格差の中で生きている人のためにも、医学の知識を活かしたい」

松山市に来たばかりのころ、息子と一緒に自転車で走って撮影したという市内の名所の写真。院内のあちらこちらに飾られている 写真/北村史成
松山市に来たばかりのころ、息子と一緒に自転車で走って撮影したという市内の名所の写真。院内のあちらこちらに飾られている 写真/北村史成
【写真】動画内で使用した「まるで医学書」のような高いクオリティーのスケッチ

 そんな熱い志が富永さんの中で芽生えていた。

 富永さんは聖隷浜松病院に赴任する直前に同業者の医師と結婚をしている。しかし転勤も多い勤務医同士、結婚生活は別居婚から始まった。

 やがてふたりの子宝に恵まれたものの、日中は病院付属の保育園に子どもたちを預けながら、救命救急や麻酔科医の仕事をこなす日々。実母の手を借りることもあったが、単身赴任でのワンオペ育児には限界もあった。

 育児を優先するために、一時は地元の徳島県に戻り、'08年には夫が愛媛県松山市に転勤するタイミングで、麻酔科医のキャリアを捨てた。

「夫婦そろって勤務医は無理、ならば私が開業する」

 なんの縁もゆかりもない土地で、たった1人での完全落下傘開業、それが「富永ペインクリニック」である。'08年、40歳のときだった。

「右も左もわからん土地で開業するなんて、狂気の沙汰だと言われましたよ」

 一般的に医師が開業する際には、それまで勤めていた病院のなじみの患者らを引き連れて開業するのが定石。コネもなければ縁故もない松山市で突如、開業した富永さんの姿は、かつての同僚の目にもさぞかしチャレンジャーとして映ったことだろう。

 最初にクリニックを開いた場所は小さな賃貸事務所ビルの2階。スタッフも看護師と受付、富永さんの3人だけ。

 膝や腰の痛みの治療だけでは、地域に地盤のある整形外科に負けてしまう。そこで富永さんが着目したのが、女性のための頭痛外来だった。

「この分野なら勝てると確信しました。それまでも頭痛なんて市販薬を飲んでおけばいい、もしくは寝具を変えればいいと言われていた時代。当時はまだ医師が本気で医療のメスを入れていなかった分野でしょう。ここに一点集中しようと振り切ったんです」

 たとえ小さくても自分が勝てる土俵を探す─祖母から受け継いだ経営哲学だ。富永さんの目論見は的中、開業からわずか3年で年間1万5千人以上の肩こり、頭痛に悩む人を診療(エーザイ社調べ)した。

 この数は、女性院長クリニックでは当時、日本一だったという。

 また'13年には初となる著書『こりトレ』(文藝春秋)も上梓し、1日1万冊を売り上げるほどのベストセラーに。これもこれまでの同一線上にある戦略だ。

「肩こりといったら整体や、マッサージ。それを医者が医学的論拠を用いて、わかりやすく説明したらきっと勝算はある。

 “たかが肩こり”と言われますが、本当に困ってる人たちがいるんです。誰にも相談できず、痛み止めばかり飲んでいて、胃を壊す人だっている。

 私がいつも救いたいのは、身体の調子が悪いのに専門的な医療が届かない地方の人、特に女性たち。そんな人にも自分でできるセルフケアを届けたかった」