「地元の仲間たちで“梅辰会”なんて名前をつけて、梅宮さんを囲んでよく飲みました。真鶴の自宅にも、みんなでお邪魔しましたよ。忘れられないのは、亡くなる2年前に“いつまで俺のことを梅宮さんって呼ぶんだ、それをやめろ”って言われたこと。それで男たちは“オヤジ”と、女性は“お兄ちゃん”とか“パパ”って呼ぶようになってね」

「Uber Eatsないじゃん。無理無理無理」

 そんな地元民に愛された父の思い入れのある家に、娘の梅宮アンナが住むことに。
自身のインスタグラムで高らかに宣言したのは、'21年9月30日のこと。

《父が大事にしていたこの家を完全に引き継ぐ事に至り、私自身、東京を離れる事になりました》

 梅宮さんが亡くなった当初は、売却も考えていた。購入希望者に内覧させたこともあったが、母と住んでみて、考えが変わったという。昨年12月のWEBサイトのインタビューで、真鶴生活の素晴らしさについて、こう熱弁していた。

《せっかくここに住んでるんだから、半径10キロや20キロになにがあるのかを知りたいなと思って探索していて。いまは、それが楽しい。ここから車で30分くらいで、箱根に行けちゃうし、美味しいご飯屋さんもあったりする》

《朝がくると「ここって、素晴らしいなぁ」と毎日思います。最初のうちは、すぐに飽きるかなと思ってたんですけどね》

 東京を離れることを決断し、クルマも湘南ナンバーに変えた。アンナの個人事務所の登記には、昨年10月に代表取締役・梅宮アンナの住所も真鶴に移転している。

'18年、真鶴の自宅前で梅宮辰夫さんは「山城新伍も渡瀬恒彦も菅原文太も、親友は全員死んじゃった」と語っていた
'18年、真鶴の自宅前で梅宮辰夫さんは「山城新伍も渡瀬恒彦も菅原文太も、親友は全員死んじゃった」と語っていた
【秘蔵写真】幼少の梅宮アンナが父・辰夫さんに甘えて抱きついて…

 ただ、同じインタビューで田舎の不便さにも触れていた。

《最初は「Uber Eatsないじゃん。無理無理無理」ってなってました。ピザ屋さんが1軒あるくらいで。やっぱり、東京で生まれて育ってたから、そうなっちゃう》

 暮らしてみると、プラスよりマイナスの要素を強く感じるようになったのか。ただ、そうはいっても、住み始めてから1年もたっていない。