しかし、小学6年の娘に、「おまえは目つきが悪いから」と整形を進めた母は違った。

母はいつも自由で遠慮がなくて(笑)。目つきの悪さで私が将来、苦労すると思ったみたい。母は私と違って美人だったから、仕事なんてする必要がなかった人。若いころはモデルとして雑誌の表紙になったり、会社の受付嬢になってすぐ結婚して……。それでも本人は働きたかったのかも。『やってみなさい、女は度胸よ!』と応援してくれました」

母が亡くなるまでの姿を見て、準備の大事さを痛感

 また、昭子さんは文化服装学院卒業の腕を活かし、娘の華やかなステージ衣装を魔法のように縫い上げた。邦子さんも裁縫は得意だが、母の足元にも及ばないのだとか。

 加えて、娘の収入を「ほかの人に任せると心配だわ」と言い出し、個人事務所を立ち上げた。

私はお金に無頓着だったから、もしかしたら母には使い込まれていたかもね(笑)。今は弟が後をついで事務所の社長をやってくれています

 邦子さんが30代になるとだんだんと母と娘、2人の関係も変わっていく。

母は友人も多かったんですが、その友人が娘と旅をしているのが羨ましかったんでしょうね。でも、『仕事ばかりで一緒に旅行する時間もない、家族で過ごす時間がない』と嘆くので、ハワイ旅行に連れていったこともあります

 47歳の邦子さんに乳がんが見つかったときも、昭子さんに話すと大騒ぎしたり、空回りされても困るため、知らせなかったのだとか。そして、メディアに情報が出るころには、治療も終盤、記事が掲載される前に自分で伝えることができた。実に孝行娘である。

 昭子さんの葬儀では、自らマイクを握り、川中美幸さんと献歌をした邦子さん。葬儀のあとも、母の休眠口座を整理したり、やることは山積みだったと話す。

「連絡してほしい人のメモを残していたり、母は終活ができていたほうだと思うんです。私には子どももいないし、母が亡くなるまでの姿を見て、もっと早く、細かい点まで準備をしておかなくちゃ、と思うようになりました」