目次
Page 1
ー 学業に戻るためバンドを辞めることを決意していた
Page 2
ー 多忙すぎてパジャマのまま担ぎ出して車に乗せて運ぶ日々
Page 3
ー 事故に遭った大阪行きはプライベートだった
Page 4
ー 当時のマスコミは正常ではなかった

 『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』など数々の名曲で昭和歌謡史の一時代を築き上げた坂本さん。若き日のキュートな素顔や、誰もが知っている『上を向いて歩こう』の誕生秘話、そして最後に歌に込めた思いとは―。

学業に戻るためバンドを辞めることを決意していた

九ちゃんはエネルギーにあふれていて、本当にキュートでした。『上を向いて歩こう』はみなさんに愛されてきた曲で、もし彼が生きていたら、今でも歌っていると思います

 こう話すのは、マナセプロダクションの二代目社長、曲直瀬道枝さん(82)。マナセプロは坂本九さんの当時の所属事務所で、曲直瀬社長は生前の彼を近しく知る一人である。

 坂本さんを発掘したのは、曲直瀬社長の姉・信子さん。坂本さんは18歳でザ・ドリフターズの前身となった井上ひろしとドリフターズのバンドボーイを務めていた。

九ちゃんはバンドボーイなのにすごい人気で、女の子たちにキャーキャー言われてた。評判を聞きつけた姉が見に行き、ぜひマナセプロにと声をかけたんです。でも九ちゃんはお母さんと相談して、学業に戻るためバンドを辞めることにした。そこをなんとか、と姉がお母さんと九ちゃんを口説き落としたんです」(曲直瀬社長、以下同)

 坂本さんはマナセプロに入所し、ダニー飯田とパラダイス・キングの一員としてデビュー。1960年に『悲しき六十才』、続いて『ビキニスタイルのお嬢さん』で立て続けにヒットを飛ばす。大ブレイクはその翌年で、やはり姉の協力があった。

あるとき中村八大さんがリサイタルを開くと聞き、九ちゃんに1曲歌わせてくれないかと姉が持ちかけた。そこで八大さんが九ちゃんのために書いてくれたのが、『上を向いて歩こう』でした

 中村八大さんのリサイタルで『上を向いて歩こう』を初披露。譜面は直前に渡され、独特の節回しで歌い上げた。

九ちゃんのお姉さんが小唄をやっていたので、その節回しを入れたという人もいれば、九ちゃんの好きだったジーン・ビンセントの節回しじゃないかという人もいる。九ちゃんはウエスタンカーニバルでヨーデルを歌っていたので、喉を回すこともできました。そうしたいろいろな素養がある中で素直に歌ったら、あの歌い方になったと思います