『上を向いて歩こう』でスターダムに上りつめた後も、『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』『幸せなら手をたたこう』とヒットを連発。昭和歌謡史の一時代を築き上げていく。
事故に遭った大阪行きはプライベートだった
'83年、創業者である父が脳梗塞で倒れ、曲直瀬社長はマナセプロの二代目社長に就任する。そこには坂本さんの後押しがあったと明かす。
「父が次の社長は誰にしたらいいだろうと九ちゃんに相談をしたら、みっちゃん(道枝さん)はどうだろうと。私は大学卒業後、自分で花屋を始めていて、5年ほどたったころ。花屋をきちんとやれているのだから、プロダクションも任せられるんじゃないか、ということでした」
坂本さんも歌手としてはかつての勢いはなくなり、事務所は低迷の一途をたどっていた。道枝さんがプロダクションの社長に就き、まずは再起をかけ、テレビ局回りからスタートした。
「あのときはすごくいじめられましたね。べそをかくような状態です。九ちゃんが“ごめんね、僕のためにこんな嫌な思いをさせて”と言ってくれました。でも九ちゃんと一緒にできた仕事は少なくて。私が社長になってから2年余りしかいなかったから」
生前最後の曲となったのが『懐しきlove-song』。大人の男が歌える歌をという、坂本さんの思いを込めた歌だった。'85年8月12日、坂本さんは大阪へ向かうため、日本航空123便に搭乗する。同日夕刻、123便が消息不明とテレビ各局が一報を流した。
「大阪行きはプライベートだったので、私はまったく知りませんでした。でも当時デスクだった私の夫は、九ちゃんから聞いていたようです。ニュースを見た私が“123便が行方不明らしい”と話したら、“えっ、それ九ちゃんが乗ってる飛行機だ”と言って」
航空会社に問い合わせても、誰も何も答えられない。現場は混乱し、情報は錯綜し、どこが現地かもわからない。
「すぐ九ちゃんの自宅に向かって。時間がたつにつれ、外にはマスコミの方がどんどん増えていって。電話をしても何もわからなくて、もう手探りで出かけました。自衛隊機が山梨、群馬の方向に飛んだという情報だけで、向かった先は現場の裏側でした」
翌朝、日本航空123便の御巣鷹山墜落が判明。由紀子夫人やご家族と付近に待機していた曲直瀬社長は、そのまま身元確認のため、みんなで現地の体育館へ向かった。