親友と漫才コンビ「のりこ・くにこ」を組み、短大に進んでからは近隣の早稲田大学寄席演芸研究会に入った。

相方がお笑いの道に進む気がなかった

サークルにはテレビのお笑い番組でチャンピオンになる人がいっぱいいました。テレビで3分間のネタをやるアルバイトとか出演依頼が来る環境だったんです。相方ののりこちゃんはお笑いの道に進む気がなかったので、仕方なく私はピン芸人としてテレビに出るようになりました

短大生のころ。近隣の早稲田大学寄席演芸研究会に入ったり、親友と漫才コンビを組んでいたことも
短大生のころ。近隣の早稲田大学寄席演芸研究会に入ったり、親友と漫才コンビを組んでいたことも
【写真】初々しい…“俳優”としてデビュー当時した当時の邦子さん

 山田が最初にお茶の間をにぎわせたのは、テレビ番組荒らしの素人時代にバラエティー番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)の素人勝ち抜きコーナー。

 バスガイドのネタを披露し、「右手をご覧ください。一番高いのが中指でございます」のギャグが大当たりした。

 そのままチャンピオンになりたかったが、すでに出演が決まっていたTBS系連続ドラマ『野々村病院物語』の初日のロケとぶつかり、フジとTBSのプロデューサー同士が話し合い、泣く泣く勝ち抜きチャンピオンを断念。そのまま芸能界デビューとなった。

 病院内の人間模様を描いたドラマでの山田の役柄は、おしゃべりな看護師。主演は宇津井健さんで、山岡久乃さん、夏目雅子さんといった錚々たるメンバーとの共演だった。

当時、女性の初任給は手取り12万円。でもドラマは週4万円で、5週あると20万円になりました。『あっ、全然いいな、この就職』と思って、芸能界入りを即決したんです

 実はこのとき山田は西武グループの建設会社への就職が決まっていた。父が知り合いに頼んで、娘のために選んだ会社だった。当然、父は娘の芸能界入りに反対する。

制服まで作ってもらいながら1日も出社することがなかったので、父は1年間口をきいてくれませんでした

 山田の決意は揺るがなかったが、迷惑をかけた会社へは1年後に謝罪に行ったという。

不義理なことをしたのに『みんなで応援してるから』と言ってもらえて、45年がたった今でも仲よくさせてもらっています。出版記念会や誕生日会、結婚式など、イベントはすべて西武のプリンスホテル系列と決めています

 このころ、山田の才能をいち早く見抜いていたのが朋友の片岡鶴太郎だった。山田が素人としてテレビに出ているのを見て、自身も在籍する太田プロダクションへの所属を持ちかけた。

邦ちゃんには道玄坂の喫茶店で初めて会いましたが、最初からただならぬ雰囲気でオーラを放っていましてね。この子は売れるなと確信し、逃したらダメだと思いました。年は5つ下だったので、妹が事務所に入ってくれたようなうれしさもありましたね