『オレたちひょうきん族』は、1981年から8年間放送され、最盛期は20%以上の視聴率を記録した伝説のバラエティー番組だ。
もう死んでもいいと思いました(笑)
ビートたけし、明石家さんま、島田紳助、鶴太郎らがコントを繰り広げ、出演者はこの番組からスターの座へ駆け上がった。山田もその一人で、薬師丸ひろ子や松任谷由実のモノマネで大ブレイクを果たすことになった。
「今でこそみんな大スターですけど、そのころはまだ駆け出しで、どうしたら面白い番組が作れるかわかってなくて手探りでした。楽屋もみんな一緒で、ジーンズにスタッフから配られたトレーナーを着て、格好もダサかったですね」
鶴太郎はこのころの山田のことを、次のように話してくれた。
「あれだけの男所帯に紅一点で入ってきて、喜々として出演しているわけだから、やっぱり突出していましたよ。誰も寄せつけない才能で、その後どんどん番組を任されていきましたから」
山田の秀でた才能は誰もが認めるものだったが、当時はコンプライアンスがない時代。「バカ」「ブス」「早く嫁に行け」「なんで子どもを産まないんだ」といった言葉を、楽屋でも街中でも毎日何十回と言われてきたという。
「傷つくことはなかったけど、またかとがっかりする感じでした。私は言ってもいい独身女性の代表になってしまっていたのでしょうね。今は容姿をネタにはできないですし、芸人も昔に比べると高度なコントをやっていると思います。高尚すぎて私は爆笑できないこともあるけど、それが時代なんでしょう」
当時、女性は25歳で「売れ残りのクリスマスケーキ」と言われる時代だ。結婚願望はなかったのだろうか。
「祖母は『23歳ぐらいが娘として一番キレイなとき。周りの男の人がみんなお嫁さんになってと言ってくるから、一番いい人を選びなさい』と言ってました。でも23歳になっても誰からもプロポーズされず、あれ? おばあちゃんの言ったことは嘘だったんだと(笑)。
小さいころ、結婚しない近所のお姉さんを不思議だなと思ってたけど、自分はそっちのグループだったんだと悟りました」
一方、当時はトップアイドルとの交流も多く、華やかな芸能界を楽しんできた。
「松田聖子ちゃんとコントをやったり、松本伊代ちゃんが家に遊びに来たり。ファンだった西城秀樹さんの自宅におじゃました際は、秀樹さんが弾き語りをしてくださったことも。ヒデキの大ファンだったから、もう死んでもいいと思いました(笑)。
ジュリー(沢田研二)も大好きで、私のアルバム制作時にはレコーディングにも付き合ってくださって。私はジュリーと結婚するんだと勝手に思ってました(笑)」
時代劇に出演することが決まり、「かつらをかぶりやすいように」といきなり髪をそりあげたこともある。ちょうど、たけしのフライデー襲撃事件があり、山田がたけしの代わりに司会を務めたことから、本人の代わりに頭を丸めたととらえる人もいたという。