作家で僧侶だった瀬戸内寂聴さんからも連絡があり、「悩みがあったらすぐいらっしゃい」と心配してくれた。
「それがご縁で寂聴さんのマネをするようになって、亡くなる前までずっと仲良くさせていただきました」
ギリギリで生きてましたね
1989年、山田は『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)などの冠番組を持ち、女性芸人として無双の状態になっていく。一時期は毎週14番組、隔週で17番組を収録していたという。
「あまりに忙しくて、寝る時間もなくて、警察に『死にたい』と匿名の電話相談をしたこともありました。すると担当の方が親身になって話を聞いてくださり、われに返って思いとどまることができました。ギリギリで生きてましたね」
そんな売れっ子だった山田だが、1995年ごろから逆風が吹き始めた。週刊誌のバッシング報道や恋愛スキャンダルなどでワイドショーをにぎわし、次第に番組も消滅していったのだ。
「最初はショックでしたが、デビュー以来、走り続けてきたこともあり、ペースダウンして自分を見つめ直そうと気持ちを切り替えました。舞台の仕事や習い事など、今までできなかったことを始めたんです。落ち込んでもすぐに立ち直って、楽しいことだけを考えるのは性格なんでしょうね」
このときに長唄を習い始めたが、60歳のときには名取・杵屋勝之邦を襲名するまでになった。
「歌が全然上手にならないので、どうしたものかと思い、長唄の教室に通い始めたんです。トップクラスの先生のところで習い、歌舞伎座に出演するまでになりました。長唄を習ったことで、三味線も弾けるようになり、茶道や着付けも身につきました。
私はお笑いでは師匠がいませんでしたが、長唄で師匠ができて、芸の世界に入れたのはうれしかったですね」
40歳のときには9歳年上の番組制作会社社長と結婚した。
「笑うところが同じだった相手です。人間として結婚を一度は経験するべきかなと思って。結婚式は忘れないように元日にしました。披露宴の台本は自分で書いて、お約束でウエディングケーキに顔を突っ込みました」
突っ走っていた時代から少し落ち着いて人生を歩むようになっていた山田だったが、2007年に乳がんが見つかる。テレビ番組『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』(テレビ朝日系)で、乳がんの自己検診をする回があり、収録に参加していて違和感に気づいたのだ。
「自分で触ったときにゴツッとした感触のものがあって、骨にくっついた感じで動かないんです。イヤな感じがしてすぐに病院に行ったらやっぱりがんでした。2度の温存手術と28回の放射線治療、5年間のホルモン療注で寛解に至りました。もう18年もたちましたね」