乳がんに罹患してからは人生観が変わったという。

それまでは、やりたいことをやって、いつ死んでもいいと思ってました。暴飲暴食、ストレスマックスで生活も乱れていました。でも生き残ってみると『まだまだ死なないぞ』という気持ちに。おせち料理はあと何回食べられるのか、お花見は何回できるだろう、温泉旅行には何回行けるだろうと日常が大切になりましたね

検診の大切さをこれからも伝えます

 乳がん罹患後は、がんに関わる啓発活動に積極的に参加するようになった。

「がんを公表してから、いろんなところで『私もがんです。一緒に頑張りましょう』と声をかけられるようになりました。がんになるまではわからなかったけれど、こんなに大勢の仲間が頑張っていたんだと気づきました。

 それまで集団での活動が苦手だったんですが、がん撲滅を目指す『スター混声合唱団』の団長を務めるまでに。がんになってから友達も増えて、あの名俳優の倍賞千恵子さんもがん仲間として仲良くさせてもらっています。コロナ禍で病院に行くのが遅れ、亡くなってしまった友達もいます。生かされた私は検診の大切さをこれからも伝えていきます

 プライベートでは、面倒見のいい山田を慕う芸能人は多い。ジャンルも世代も異なる演歌歌手の山内惠介もその一人だ。

「邦子さんとの出会いがなければ僕の歌手人生も変わっていたはず。めちゃくちゃ頼りになる姉ですね」と山内は話す。

 2人の出会いは、山内がデビュー10周年を迎えたときだ。当時、山田が司会を務めていたNHKのラジオ番組『日曜バラエティー』に山内が出演。子どものころからテレビで山田を見ていたが、「この人とは気が合いそう」という直感があったという。

番組の後、『飲みに連れていってください』と思い切って言ったところ、邦子さんは快く応じてくれました。人に対する思いや共感することが似ていて、僕の直感は当たっていたんです

 その日を境に山田との交流は深まっていく。焼き肉やお寿司など食事をごちそうしてくれ、誕生日も祝ってもらうようになった。自宅に招かれ、山田と夫から手料理を振る舞ってもらうこともあった。

30歳のころ。母親と行ったハワイのホテルにて
30歳のころ。母親と行ったハワイのホテルにて
【写真】初々しい…“俳優”としてデビュー当時した当時の邦子さん

 山田は山内のステージにも足を運び、インタビューでは「推し」として名前を挙げてくれている。ラジオ番組で自分の曲を流してくれるなど、山田の応援が心の支えになっていったという。

『孤独を感じたときはまず湯船で温まりなさい』と、日常を大事にしている邦子さんならではのアドバイスをもらいました。これまですごく支えてもらったからこそ、今度は自分が邦子さんを少しでもサポートできるような存在になりたいですね