こうして、'72年10月にザ・ぼんちを結成。当時、吉本の先輩では横山やすし・西川きよし、今いくよ・くるよなどが活躍しており、同期にはB&Bがいた。ふたりは結成から半年足らずで、なんば花月にて初舞台を踏んだ。
出番が1回でも3回でも1日のギャラが500円
「あのころは芸人が少なかったから、舞台の仕事だけはありました。今の若手は大変ですよ、出演枠の取り合いやもん。だけど当時は、出番が1回でも3回でも1日のギャラが500円(笑)。それだけじゃ食べていけないから、スナックでバイトして」(おさむ)
「僕は夜8時から午前2時まで、サウナでお客さんの案内やタオル交換のバイトをやってました」(まさと)
'76年には『NHK上方漫才コンテスト』で優秀敢闘賞を受賞。一見すると順調のようだが、仕事は相変わらず劇場中心。テレビにはなかなか出られなかった。
そんなとき、桂三枝(現・六代文枝)や桂文珍が出演し、大阪で話題となっていたお笑い番組『ヤングおー!おー!』(毎日放送)からお呼びがかかる。
若手中心のユニットグループを売り出すことになり、そのメンバーに、紳助・竜介、西川のりお・上方よしおとともに、ザ・ぼんちも選ばれた。
まさとが忘れられないのは、このときの三枝の言葉。まさとと竜介、上方よしおのツッコミ3人を呼び出し、
「売れたいならボケ、つまり君らの相方を目立たせなあかん。そのツッコミは僕がやるから君らは死んどきなさい」
と、直言したというのだ。
「三枝さんのツッコミは、そりゃピカイチでしたから、僕らは何も言えません。売れてる人はきちんと考えてはんのや、やっぱり違う、と思わされましたね」(まさと)
「でもね、この番組ではすでに三枝さんとさんまちゃんが大人気やったから。結局、ユニットも大して話題にはならなかったんです」(おさむ)
テレビの仕事は少しずつ入るようになったが、どうにも殻を破り切れない……。加えて、このころの上方演芸界は、やや盛り上がりに欠け、停滞ムードが漂っていた。
「スーパーの店頭で営業をやっても、客が全然集まらない。川中美幸ちゃんがまだ売れてないとき、よく一緒に営業をやりましたよ」(まさと)
吹田市出身の川中美幸は、当時“春日はるみ”という芸名で活動していた。突然の呼び出しにもすぐ駆けつけてくれることから“困ったときのはるみちゃん”と重宝がられていたという。
「スーパーで、一緒にミカン箱の上で営業してた美幸ちゃんが立派な歌手になったのがうれしくてね。浅草の大きな会場で歌う姿を見たとき、涙が出ました」(おさむ)
そんな不遇の時代、ふたりの支えになったのが「笑(しょう)の会」だった。
「事務所の垣根を越えて、漫才を勉強する会です。吉本を辞めて東京に拠点を移していたB&Bや、吉本からはオール阪神・巨人も参加してました」(おさむ)
会長は、エンタツ・アチャコの漫才作家でもあった秋田實氏。「上方お笑い大賞」を立ち上げた読売テレビの有川寛氏や、『11PM』(日本テレビ・読売テレビ)の司会を務めていた放送作家の藤本義一氏らがまとめ役となり、若い漫才師や漫才作家らの育成にあたった。
この会が、思いがけずのちの転機につながることになる。藤本氏が「大阪の若い漫才を東京の人たちに見てもらおう」と、新宿紀伊國屋ホールでの公演を企画。ザ・ぼんちも参加することになった。
「事務所は関係ないイベントですから、新幹線代は自腹。会場前で、ぜひ見に来てくださーい!と、道行く人にチラシを配りました」(おさむ)











