東京ではほぼ無名のザ・ぼんちを起用した理由のひとつに、新宿の公演での強烈な印象もあっただろう。第1回の放送は'80年4月1日。視聴率は15.3%と、予想をはるかに上回った。

スタッフが運転するバイクの後ろに乗ってテレビ局を行き来

翌日は、長崎大学の学園祭の仕事でした。飛行機の中で相方と並んで座ってたら、CAさんが“サインをください!”と。有名人でも乗ってるのかな?と思ったら、まさか僕たちにサインを頼んでるなんて。前日のオンエアで、僕らを見たと言うんです。びっくりでしたよ」(まさと)

若手芸人やスタッフと気軽に食事や旅行に行くなど気配りの人であるザ・ぼんちのまさと 撮影/山田智絵
若手芸人やスタッフと気軽に食事や旅行に行くなど気配りの人であるザ・ぼんちのまさと 撮影/山田智絵
【写真】まるでアイドルのコンサート! 大ブレイクを果たした漫才ブーム時代

 長崎大学では思ってもいなかったほどの観客が大挙して詰めかけ、実行委員会の学生らが右往左往していた。

放送を見た人らがステージに押し寄せて、“昨日のテレビのネタやってー!”と叫ぶんです」(おさむ)

僕らが番組でネタをやった、その数分を境にして人生が動き始めた。“たった8分の奇跡”です」(まさと)

 運命は一夜にして変わった。1回限りの特番の予定だった同番組は、好評を受けシリーズ化されることに。視聴率は右肩上がりで、年末には30%を超えた。このほかにも

 『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)、『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)などのお笑い番組が次々に成功、若者の間で熱狂的な盛り上がりを見せる。テレビが時代の中心だった'80年代初頭、爆発的な漫才ブームの到来だ。

どこに行ってもお客さんでいっぱい。それまではずっと、地方の営業では一部が漫才、メインの二部が歌謡ショーでした。それが、ザ・ぼんちを二部にしてほしいと言われるようになったんです。ぼんちが先だと、お客さんが二部を見ずに帰ってしまうから困る、と」(おさむ)

 イケイケドンドンの昭和のテレビ業界、ダブルどころかトリプルブッキングも当たり前。スケジュールは分刻みで、渋滞を避けるためにスタッフが運転するバイクの後ろに乗ってテレビ局を行き来した

 山梨と静岡で同日に4ステージをこなすため、ヘリで移動したこともある。レコード『恋のぼんちシート』のヒットも、人気に拍車をかけた。

歌番組に出ると、女の子たちがたのきんトリオにキャーキャー言うのと同じように、僕らにも大声援を送ってくれるんです」(おさむ)

 この当時、ふたりは不遇の時代を支えてくれた女性とそれぞれ結婚していたが、アイドル的人気は変わらず。レコードは80万枚を売り上げ、'81年の7月には、武道館で単独ライブを開催。漫才師としてはもちろん初。チケットは完売、大入り満員だった。

でも、決して天狗にはならなかったね。蝶よ花よと、もてはやしてくれるのは東京のスタッフだけですから」(まさと)

「大阪の劇場では、ベテランの先輩方から“おまえら偉うなったなぁ”“なんや楽屋で寝るんかいな!”って、さんざんイヤミを言われてましたよ(笑)」(おさむ)

 売れたことを心から実感できたのは、やはりホームである大阪なんばの劇場だった。

僕ら漫才師は、やっぱり劇場でトリを取りたいんです。それまでは、トリは三枝さんかやすきよさんで、代演もお互いが務めると決まってた。でも僕らがやすきよさんの代わりをやらせてもらえるようになってね。おそれ多いけど、うれしかったなぁ」(おさむ)

 社会現象にまでなった漫才ブーム。ただ、打ち上げ花火のようなお祭り騒ぎは静まりゆくのもあっという間だった。