昭和天皇が還暦に詠んでいた悲しい歌

1934(昭和9)年に撮影された昭和天皇一家。左から東久邇成子さん、昭和天皇、池田厚子さん、香淳皇后、上皇さま、鷹司和子さん
1934(昭和9)年に撮影された昭和天皇一家。左から東久邇成子さん、昭和天皇、池田厚子さん、香淳皇后、上皇さま、鷹司和子さん
【写真】学生時代の佳子さま、割れた腹筋が見える衣装でダンスを踊ることも

『陛下、お尋ね申し上げます』(文春文庫)によると、1961年4月24日、昭和天皇は還暦の誕生日を前にして、長崎・雲仙のホテルで記者会見を行っている。

「還暦をお迎えになるのですが、60年を振り返って、楽しかった思い出はどんなことがおありですか」と、記者から尋ねられ、次のように答えている。

《いろいろあったが、何といってもいちばん楽しく感銘が深かったのはヨーロッパの旅行です。中でも英国でバッキンガム宮殿に三日泊まってジョージ五世陛下と親しくお会いし、イギリスの政治について直接知ることができて参考になった。

 当時、私はナポレオンやフランス革命史をおもしろく読んでいたので、フランスではベルサイユ宮殿でルイ王朝をしのび、国民会議発祥の地ジュ・ド・パォームを訪ねて非常に感銘が深かった。偶然ナポレオンの死後百年祭に当たって、いろいろなものがあっておもしろかった》

 1921年(大正10年)3月から半年間、昭和天皇は、イギリス、フランス、ベルギーなどを見て回っている。当時、昭和天皇は19〜20歳で、ちょうど佳子さまの弟である悠仁さまと同じ年頃だった。

 第1次世界大戦が終わった直後のヨーロッパを肌で知り、イギリスの名君として知られるジョージ5世ら多くの要人たちとも触れ合い、大きな刺激を受けた。このときの感動や感激が還暦を迎えた当時、一番の思い出として刻まれており、『昭和天皇実録』によると、このような和歌を詠んでいる。

《むそとせをふりかへりみて思ひでのひとしお深きヨーロッパの旅》

 一方で、昭和天皇は還暦に際して、このような悲しい歌も詠んでいた。

《還暦の祝ひのをりも病あつく成子のすがた見えずかなしも》

 昭和天皇が還暦となった同じ年の7月23日、昭和天皇と香淳皇后夫妻の長女、東久邇成子さんが35歳という若さで、病気で亡くなった。成子さんは上皇さまの姉で、秋篠宮さまの伯母にあたる。

 称号は照宮で、東久邇宮盛厚王と結婚し、戦後の混乱期を生き抜き、3男2女を育てた。現在の愛子さまや佳子さまのように、成子さんは国民からの人気も高かった。

《二十三日日曜日午前一時五十分、昨日より宮内庁病院に東久邇成子を見舞われていた天皇・皇后は、控室の皇族・御親族、及び成子の子女五名を病室に招き入れられる。三時十五分、成子が死去する。天皇・皇后は一旦病院内の御休所に入られ、宮内庁長官宇佐美毅より職員を代表して弔意の言上をお受けになる。(略)

 皇后お手ずから或いは御指示により、成子の化粧直しがなされた後、天皇・皇后は再び病室に入られ、御永訣になる。(略)》

 1961年7月23日、東久邇成子さんが亡くなった当時の様子が、『昭和天皇実録』に綴られている。

 前回のこの連載で触れたように、宮内庁は、10月9日、香淳皇后の生涯を記録した『香淳皇后実録』を公表した。その中にも、最愛の娘との別れの様子が紹介されている。成子さんが亡くなる前、香淳皇后は昭和天皇と一緒に28回、単独で34回も、成子さんの見舞いのため宮内庁病院に足を運んでいた。

《はりつめし心もゆるびいささかの言の葉にもまた涙こぼれて》

『香淳皇后実録』には、このような成子さんをしのんで詠んだ和歌も収録されている。

 還暦の喜びから約3か月後、昭和天皇は深い悲しみに包まれることとなる。天皇、皇族といえども生身の人間である。私たちと変わることのない喜びや悲しみと隣り合わせで生きている。人生、悲喜こもごもに彩られながら、佳子さまもまた、大きく成長されることだろう。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に2025年4月刊行の『悠仁さま』(講談社)や『秋篠宮』(小学館)など