'25年6月3日、戦後日本の高度経済成長期の希望を象徴する“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄さんが、天へと旅立った。
スターの宿命から逃げなかった人生
「長嶋さんは、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。'22年に自宅で転倒した際に後頭部を打って入院。以降は病院で療養生活をしつつ、体調がいいときには外出するという生活でした」(スポーツ紙記者、以下同)
立教大学時代は、当時の東京六大学野球の新記録となる通算8本塁打を記録。'58年に読売ジャイアンツに入団すると、日本でプロ野球が国民的な人気スポーツとしての地位を確立するのに貢献した。
「長嶋さんが巨人に入ったときは、プロ野球より大学野球のほうが人気でした。それが長嶋さんの出現によって世間が変わっていったのです。いちばんの転機となったのが、'59年6月25日に行われたプロ野球史上初の天覧試合。
昭和天皇、皇后両陛下の退出予定時間の5分前に長嶋さんがサヨナラホームランを放ち、国民的スポーツとして認められるようになりました。後年、長嶋さん自身も“野球人生のベストシーン”と振り返っていました」
ファンを喜ばせることにすべてを捧げていた。
「勝負強い打撃や華麗な守備はもちろん、ミスでも多くの人を魅了しました。三振をしたときのために、ヘルメットの豪快な飛ばし方まで練習していたなんていう話も。常に全力で喜び、悔しがる。そんな姿が高度経済成長期の日本の象徴となりました」(スポーツライター、以下同)
単なる人気野球選手ではなく、国民的スターに。プレーだけでなく、キャラクターも誰からも愛された要因だった。
「“失敗は成功のマザー”といった“迷語録”も数々生み出しました。球場に連れてきていた幼かった息子の一茂さんを置き去りにして帰宅するなど、人間味のあるキャラクターも愛される要因。“アンチ巨人”はいても“アンチ長嶋”という野球ファンは知りません。
“長嶋茂雄であることから逃げないと心に誓ってきた”と、スターとしての宿命を背負って生きていました」
















