疎開先でのごはんは馬のエサだった
この日、父親は恵比寿にあった海軍技術研究所に仕事で出向いており、不在だった。爆撃で立ち上る黒煙に空が覆われ、目も開けられない状態だったが、母親は自宅にひとつだけある水中眼鏡を渡してくれた。そして、猛烈な熱風の中、水中眼鏡をつけた毒蝮さんは母親と手をつなぎ、近所の空き地まで命からがら走って逃げた。
「空き地で夜を過ごし、夜が白々と明けてくるころ、ようやく攻撃がおさまった。朝になると、防空壕の入り口や道端、そこらじゅうで人が死んでるのがわかった。とにかく家に帰ろうと母親ととぼとぼ歩いてたら、子ども用の立派な革靴が片方、道端に落ちてたんだよ」
物資がなく、革靴は当時貴重品だった。毒蝮さんは思わず手に取ったという。
「あたりを探すと、もう片方も近くに落ちてた。拾ってみたら不自然に重いんだ。中を見ると、ちぎれた足首がそのまま入ってた。でも、子どもの姿はどこにもない。どこかに飛んでいっちまった、ということだ」
空襲を受け、毒蝮さん親子は父親のふるさとである横浜市戸塚区に疎開することになった。当時の戸塚は今のような住宅地ではなく、一面に雑木林や畑が広がる、のどかな地域だった。
「田舎だから米が食えると期待したよ。それまでは麦飯とか、メリケン粉で固めたすいとん、芋しかなかったから。ところが田舎でも米は貴重。代わりに本家が分けてくれたのが、コーリャンという馬のエサだった」
戸塚の小学校に編入した毒蝮さんは、母親が作ってくれたコーリャンで固めた弁当を持って学校に通った。ところが50人いたクラスメイトは、東京から来た毒蝮さんをなかなか受け入れようとしない。「おまえ、赤飯なんか持ってきやがって。何のお祝いだよ」と、いちゃもんをつけられる日々が続いた。
「コーリャンを炊くと赤くなる。赤飯じゃないとわかって、わざと言ってるんだよな。だから俺も、兵隊に行ってる兄ちゃんの誕生日だとか、父ちゃんの誕生日だとか毎日うそを言って、わざとうまそうに食ってやった。そうしたら、相手ももう何も言えなくなってたよ」
終戦を告げる玉音放送は、戸塚の本家の縁側で聴いた。8月15日の暑い日、近所の人も集まっていた。
「中には泣いてる人もいた。俺はただただ、2人のあんちゃんが無事に帰ってくれりゃいいな、と思ったね」


















