終戦後のほうがつらかったと振り返る
戦争は、掛川に来てから半年もしないうちに終わった。
「近所の石材店で玉音放送のラジオを聴きました。でも電波が悪くて、何を言ってるかまったく聴き取れなかった。どうやら戦争が終わったらしいということは周りの人に教えてもらったけど、田舎だから戦争があってもなくても何も変わらないんですよ」
むしろ終戦後のほうがつらかった、と伊東さんは振り返る。
「とにかく食べ物がありませんでした。もちろん米なんてないから、代用食と呼ばれるさつまいもなんかを食べていました。といっても、今売っているようなおいしいさつまいもとはまったく違うものですよ」
戦時中の深刻な食糧不足を補ったのが、荒れ地でもよく育つ「沖縄100号」という品種のさつまいもだった。繊維がかたくて筋も多く、水分や甘みはほとんどない。手のひらにのるほど小さなこのいもを3つ、毎日弁当箱の中に入れて学校へ通った。
「何かを腹いっぱい食べる、ってことがまずなかった。そんな状態が、戦争が終わった後も何年か続いたと思います」
そんなある日、13歳上の長兄が、出征先の中国から掛川に戻ってきた。
「復員して、まずは東京の家に帰ったそうなんです。ところが私たち家族は誰もいない。役所に行ったりしてあれこれ調べて、やっとみんなが掛川に疎開していることがわかったと」
命は助かったが、その後も長兄は病に苦しめられた。
「マラリアだったか壊血病だったか、決まった時間になるとものすごい震えがきて、高熱が出るんです。押し入れに閉じ込めて、家族みんながふすまを押さえつけなきゃならないほど震えるんですから。まるで地震のようでしたよ」
体調が落ち着いたころ、映画好きだった長兄は掛川でアマチュア劇団を結成する。「子役が足りないから」と舞台に引っ張り出されたことが、伊東さんが役者を志すきっかけとなった。
「戦争を知りたいなら、本当は私よりもっと年上の人に聞いたほうがいいんだけどね。子どもだったし、たいした話はできませんから」と伊東さんは言う。しかし戦争を風化させまいとする思いは強い。戦没者の慰霊を目的とする靖国神社の「みたままつり」でも、たびたび「かけぼんぼり」を奉納してきた。
《兄よ 父よ 祖父よ 今この國がおかしくなっています》(平成13年奉納)
《あの頃、戦中だったのにみんな 穏やかだった。
今、親子が 学校が
世の中が まるで戦争してるみたいです。
お国の為に 父母の為に散った 兵隊さん達に 羞かしいです》(平成20年奉納)


















