ちょっと変わった子どもだった幼少期
音楽性に富み、友人が多く、天性の癒しキャラである尾崎の少女時代は、意外なものだった。
「小さいころからピアノを習っていて、流行っている音楽を知らなかったんですね。父がクラシック一辺倒で私を音楽大学に行かせたかったらしく、ポップスを聴くことに大反対だったんです。姉はお年頃だったので、こっそりジュリー(沢田研二)の写真を机に忍ばせていましたけど。
学校では、私は病気がちだったのとコミュニケーション障害があっていじめられっ子でした。子どもってちょっと変わってる子はつまはじきにしますよね。でも私には、音楽という言葉があるから大丈夫だと思っていました。
私はよく“1メートルの大きなアリを見た”といった、子どもらしいウソをよくついていました。それでもそういうウソに喜んで付き合ってくれる友達がいて、近所を一緒に探したりしました。いくら探しても当然いないんだけど、“もしかしたら50センチくらいならいるかもね”って言ったりして。
先日、『徹子の部屋』に出演させていただいたとき、黒柳徹子さんもトットちゃんで有名な少女時代をお過ごしになられていたので、とても共感してくださいました。そのころの気持ちは今も変わらず歌ってます。これからもずーっと滞りなく続くし、それがなくなると、自分が自分でなくなる怖さがあります」
そんな子ども時代を過ごした尾崎。高校生になると、急激にいろいろな情報が押し寄せ、夢中でたくさんの音楽を聴くようになり、いろいろな楽器も試した。'70~'80年代は、『スター誕生』やポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)などのアマチュアコンテスト全盛期。尾崎がプロになるきっかけとなった近畿放送(現在のKBS京都)のラジオ番組『アクションヤング大丸』に出場したときのことを振り返った。
「ギターの弦とか買いたくて、デパートが主催するオーディション番組に商品券目当てで応募しました。最初は3人組で出場していて月間チャンピオンを獲得したんですが、審査員の方が私だけ褒めてくださって、2人が抜けて私だけになっちゃって。『エンプティー・ストリート』というバンド名がいけなかったんですかね(笑)」
ここで年間チャンピオン大会への進出となったのだが、尾崎は大会当日に主催者側に辞退を伝えた。
「主催者側から、出てもらわないと1年間この企画を続けた意味がないから、と説得されました。今となっては当時の自分を説教したいんですが、わざと優勝しないように、友人が作った英語の歌をサラッと歌ったんです。そしたら、ステージの司会をされていた諸口あきらさんが“美鈴ちゃん(本名)はきっとプロの歌手になるからずっと応援してるからね”と言ってくださり、結果として2位に。審査員だった東芝の方がスカウトしてくださいました。
私はプロになる気はないとお断りしたら、自分のやりたい音楽を自由にやりたいなら、プロになるべきだよと言われました。スタジオミュージシャンやアマチュアだと限界があるでしょ、と説得されたのが私にとってすごい口説き文句だったんで、プロでやりたいと思いました(笑)」



















