多くの楽曲提供でヒットメーカーに
客観的に刺さりやすいキャッチーなメロディーを生み出す感性が、多くのテレビCM曲や楽曲提供につながったのだろう。尾崎が初めて楽曲提供したのは、当時大人気だった南沙織だった。
「私から誰かに書きたいといったことはないんですね。南沙織さんの曲のオファーをいただいたのは、私の初めてのヒット曲である『マイ・ピュア・レディ』が資生堂のキャンペーンソングになり、翌年も、となったのがきっかけ。
それで作ったら、ストリングスも書いてと。オーケストレーションの譜面なんて書いたことないのに、3日で仕上げてと言われて、。急いで分厚い専門書を買って、勉強しました。大変だったけど沙織さんの歌入れも楽しかったし、こうやって、人を素敵にしていく作業ってなんて楽しいんだろうと感じた経験が、プロデューサーとしての始まりですね」
こうして南沙織に提供した『春の予感』は大ヒットし、あらゆるタイプの歌手から楽曲依頼が来るように。そんな中、沢田研二と共作する機会もあった。尾崎が作詞、沢田が作曲で、'84年に『Boyと呼ばれた頃に』という曲を松平健に提供した。
「沢田さんは歌も活動も常に冒険的なことを試されている方で、尊敬していました。同じ京都出身ですし」
尾崎に依頼される中でリクエストとして多いのが、デビュー曲やイメージチェンジをさせたいというものだという。高橋真梨子のソロデビュー曲『あなたの空を翔びたい』、松本伊代の初バラード『時に愛は』など評判を呼んだ。その中でも、観月ありさとの出会いは印象的だったと語る。
「初めてお会いしたときは14歳。会った瞬間に彼女の頭の上に『伝説の少女』という言葉が浮かんで、あの曲ができました。彼女は2度ほどわが家に遊びに来たことがあります。顔が小さくて手脚がスラリとしたルックスですが、まだ中学生だったので友達の話をしたり“先生にこう言われたんだけど、どう思います!?”とか、おしゃべりが可愛くて(笑)」
たくさんの俳優にも書き下ろした中、薬師丸ひろ子に提供したときのことをこう語る。
「きっとこんな感じに受け取って歌ってくれるんだろうなと想像して書いたら、まさにそのとおりに表現されて驚きました。感受性の素晴らしい方ですよね」



















