目次
Page 1
ー 戦時中に感じた家族の安心感
Page 2
ー 21年間にわたって放送された代表作
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ー 札幌のホテルで「5時間説教」
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ー 2026年春、倉本さんに電話も

 

9月18日、脚本家の倉本聰さんが多臓器不全のため、北海道・富良野市の自宅で亡くなった。『北の国から』(フジテレビ系)や『前略おふくろ様』(日本テレビ系)など、数々の名作を世に送り出した。脚本家として半世紀以上にわたって第一線を走り続けた一方、晩年まで若手の育成や自然環境の保全にも力を注いだ。その言葉を受け継ぐ人たちの証言から、倉本さんが生涯をかけて大切にした“根っこ”をたどるーー。

 9月18日、脚本家の倉本聰さんが多臓器不全で亡くなった。代表作ともいえるドラマ『北の国から』の主題歌を担当したさだまさしは、自身のインスタグラムで“恩人”に向けて思いを綴った。

《せっかちで頑固で喧嘩っ早い倉本先生。大好きな紅葉も落葉も雪も待てずに秋の香りのする日に、ぷいっといなくなりました。一途で不器用で芸に厳しい倉本先生。歴史に残る名作『北の国から』の音楽を、若造の僕を信用して、ぽいっと全部任せて下さった侠気の人。大恩人でした》

 8月29日、富良野演劇工場で開催されたイベント『倉本聰プライベートライブラリー』への登壇が最後の仕事となった。

「倉本さんは近年、足腰が弱り、車いすで生活していたといいます。そんな中でも酸素吸入のチューブをつけながら仕事を行っていました。愛煙家として知られ、タバコを1日に4箱計80本吸っていたそうですが、1年前から禁煙していました」(テレビ局関係者)

戦時中に感じた家族の安心感

 倉本さんは1935年、当時の国鉄代々木駅前にあった大邸宅で生まれた。

「戦時中は空襲から逃げていても、不思議と幸せだったといいます。それは家族に包まれて、守られているという安心感があったからだとか」(全国紙記者、以下同)

 のちに山形県に学童疎開することになると……。

「食べ物がなく、絵の具まで舐めたことも。家が恋しく、布団に入って泣いていたそうです」