哲夫の面倒見のよさを知る後輩
後輩の林も、哲夫の面倒見のよさを知る一人だ。
「初対面は大勢で居酒屋にいるとき。お笑い界の異端児で非常に面白い先輩というイメージだったので、緊張や怖さでかなり身構えていたんですが、意外にも普通の面があり話しやすかったです。後輩に丁寧にお笑いの話をして泣かせている姿やスケールの大きなお笑い観に触れ、とても勉強になると感じました」(林)
そのお笑い観の根底には、「幼少期にドリフや(ビート)たけしさんに笑わせてもらった分、今の子どもたちにも自分たちが魅せていかなければならない」という思いがある。
'01年に吉本興業所属となり、'02年に早くも『M―1グランプリ』決勝に初出場。最終決戦まで進み、注目の的となった。笑い飯の前に組んでいたコンビで共にボケだったことから生まれたWボケスタイル。予測不能なボケの応酬と摩訶不思議な世界観で、一躍、風雲児となる。M―1決勝にも毎年、出場。しかし優勝にはなかなか届かず、かなったのは9回目、'10年のことだった。
大石さんは「毎年、当時の教え子に“応援したってや”と伝えていて、優勝したときは本当にうれしく思いました」と語る。だが当人は、
「決まった瞬間に今までの苦労が走馬灯のようによみがえる、なんてことは全然なく。“スリムクラブが優勝すると思ってたのに、俺らに入れてくれてる人がこんなにも”って、意外でした」
9年越しの栄冠にも、いつもの調子だった。
予測不能なネタを生む想像力は、幼いころの遊びで育まれた。
「小さいときから想像ばかりしていたんで、そこには自信があるんです。あと幼稚園のころ、おばあちゃんが親戚からもらってきたレゴブロックがすごくよかった。説明書がないので、自分で勝手に作ってたんです。優勝してからもおばあちゃんがよう言うてました。“私がブロックもらってきたから、こんなふうになれたんやで”って」
M-1の賞金で塾を開校。教育は、若者全員への投資
M―1の賞金は、次の世代のためにも使った。きっかけは吉本社員との雑談。「小5の子どもの塾代が月6万円」と聞き、驚いたのだ。
「僕のときは中3で毎日行って2万やったのに、週1で6万って高すぎやと。これでは金持ちの家の子しか行けないし、格差がどんどん広がってしまう。教育は機会均等であるべきで、所得にかかわらず通える施設があったらええなと思ったんです」
'14年、M―1の賞金で「寺子屋こやや」を大阪に開校。小3〜中3を対象にした個別・補習塾で、授業料を低く抑えた。ホームページには「わかるまで丁寧に教えてもらえる」「先生がみんな優しくて面白い」などの声が並ぶ。
教職課程も履修した哲夫。恩師の大石さんも「教師に向いていると思う」と語る。
「知識が広く、好奇心旺盛で話も上手。昨年度も、奈良県の高校生への環境教育イベントで話をしてくれましたが、生徒の扱いもうまく、いつでも奈良県で採用したいと思っています」(大石さん)
ただし、教育実習にはこんな一幕も。当時、3年生の担任だった大石さんは、通常は実習生が担当しない3年生のホームルームを、哲夫に1時間預けたという。
「“面白い話をやってくれ”と言ったんですが、私の前フリがよくなかったのか、まったくウケず、私が“今日は調子が悪いみたい”とタオルを投げたように思います。なお哲夫の名誉のために申し添えますと、文化祭では当時のコンビで漫才を披露してくれて大変ウケていました」(大石さん)
だが、哲夫は「ホームルームもツカミはウケたんですよ〜」と反論。当時流行っていたドラマ『GTO』('98年フジテレビ系)をもじって大ウケしたのだとか。
実習にあたって掲げたのは、次の3つの目標だった。
「女子生徒にモテる、ヤンキー生徒と格闘する、登校拒否の生徒がいたら来させる。すべてかなえました!」
教壇でも、目標はずいぶん欲張りだった。




















