■「ただいま」には2つの意味がある

 現役大学院生として研究を続ける、獣医師であり作家の片川優子さん。最新作『ただいまラボ』は、獣医学科の研究室を舞台とした大学生たちが主人公の青春群像小説という、片川さんの体験がベースとなったものです。

「これまでも獣医学部を舞台にした小説を書いてきたのですが、その主人公が私だと思われてしまって、ちょっと面倒くさいなぁと思うところもあって(笑い)、あまり自分に近すぎる世界を書くのは避けてきたところがあったんです。でも私が大学4年生のときに入った研究室が面白くて、“この研究室のことなら書けるかも”と思ったのが、小説を書くきっかけになりました」

 獣医学科の分子生物学研究室、通称“ブンセイ”は、細胞や遺伝子などに関する研究をするラボ(ラボラトリー=研究室のこと)。そこではアインシュタインそっくりな飄々とした教授の指導のもと、学生たちが日々研究に明け暮れている。同じ居酒屋でアルバイトをしている太一とミカは4年生になってこの研究室に入り、同じ大学に通う友人の東や、太一の恋人・美穂子、研究室の先輩たちと勉強や友情、そして恋に悩みます。

「タイトルの“ただいま”には、ラボに帰ってきた人が言う“ただいま”と、“ただいまラボにいます”という2つの意味があるんです。理系学生にとっての研究室って、ホームみたいな場所なんです。私もだいたい朝9時ごろには研究室へ行って、夜まで実験しています。今は『細胞分化に関与するシグナルの研究』という実験をやっていて、細胞に刺激を与えたり、特定の遺伝子を潰したりして、その反応を調べているんですけど、細胞の実験で12時間待つことなどもあるので、私の1日の予定は細胞に合わせて組んでいるんです(笑い)」

 この小説に出てくるのは自分が勉強していることなので、間違ったことや、ヘタなことは書けないと思い、久々にちゃんと教科書を読み返したと笑う片川さん。

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『ただいまラボ』1500円/講談社

■意外と知らない獣医学生の生態!

「理系というと苦手意識のある方やとっつきづらい分野と思われるかもしれませんが、そういう方にも読みやすいように、そして興味を持つきっかけになってもらえるよう、わかりやすく書いています」

 文系出身の編集者に原稿を読んでもらい、わからないところを指摘してもらって何度も直したといいます。

「普段、理系の人同士で話しているので、どこからが理系の特殊な話なのか、その線引きが難しくて……そこをどう書くか時間がかかりましたね」

 本書は5つの話が収められていて、各話で主人公が変わり、研究室に入った春から翌年の春までの成長を描く連作短編集。しかも各話のタイトルは『シカミミ!』『ナツジツ!』『ネガコン!』『コンフル!』『ブンセイ!』という、すぐには意味がわからないちょっと不思議なもの。

 ちなみに“シカミミ”とは鹿の耳のことで、耳から抽出したDNAから、日本全国にいるというニホンジカを系統分類し、野生動物のルーツを探るというもの。そんなふうに命と動物たちと向き合う獣医学科の学生たちが日々どんなことを考えながら生活しているのか、リアルな日常が描かれています。

「最終話は“命に向き合う”というコンセプトで、本書の中でも1番時間をかけて、私自身も考えながら書いたので、思い入れが深いですね」

 ペットを飼っている方にはちょっとツラい話もあるかもしれませんが、かかりつけの動物病院の先生も、こんなことに向き合いながら青春を送ったのかな、と思うと、より親近感がわくことでしょう。

「分子生物学って新しい研究で、私が所属している研究室もできて30年しかたっていないんです。そこでやっているのは基礎研究で、今すぐ治療などに生かせるものではないんですが、そのずっと先につながっていく研究なんです。最近ではDNA判定ができる機械が一部の動物病院でも導入され始めていて、薬が効くのか効かないのかなどといったことが、安価にすぐに調べられるようになってきているんですよ」

 また獣医学科は6年制で、日本国内には16大学しかない狭き門であること、6年生になると卒業論文を書き(卒業に必須)、獣医師国家試験にも挑戦する多忙な学生生活を送ること、そして卒業生たちの意外な就職先など、私たちが知らない獣医学生たちの生態も垣間見られます。

「理系のお子さんがいるお母さんだと、毎日帰ってくるのが遅いし、何をやってるか聞いても言わない、大丈夫なの? と思っている方もいると思うんです。でも、毎日こんな実験をしたりして、わりと頑張ってるんだ、というところがわかってもらえるといいなと思いますね。理系以外の人に自分が何をしているのか説明しても、わかってもらえないことってあるんです(笑い)。でも理系がやっていることは、特殊ですけど、悩みは普通の学生と同じ。その溝を埋めたいな、という思いもこの作品に込めています」

※取材後記

 今も朝から晩まで研究をしているという片川さん、いったいいつ小説を書いているのか聞いてみたところ……。「学部生のときは朝早く起きてマクドナルドなどへ行って、サラリーマンに交じって書いていました。今は実験の合間にこっそり書いてます(笑い)」。これからも研究と執筆の“二足のわらじ”をはく生活を続けていくそうです!

(取材・文/成田 全 撮影/斎藤週造)

〈著者プロフィール〉

かたかわ・ゆうこ 獣医師、作家。1987年、東京都生まれ。麻布大学大学院獣医学研究科博士課程在学中。2003年『佐藤さん』で第44回講談社児童文学新人賞佳作を受賞し翌年、作家デビュー。著書に『ジョナさん』『動物学科空手部高田トモ!』シリーズなど。『100km!』を改題した『明日の朝、観覧車で』の文庫が5月15日に発売。