自殺を考えたほどツライ日々を笑いに変えられて

「懸賞生活」で世間が抱いたなすびのイメージと自身とのギャップに悩んだことも 撮影/齋藤周造
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『電波少年』が終わり、普通の生活に戻ったなすびだったが、街を歩いていると、「あ、なすびだ!」「ホントだ! なすびだ」と、みんな自分を指さしては口を押さえて笑う。

「僕はまた、日テレが企んだ番組だと思いました。指さしている人たちも仕込んだサクラなんじゃないかとね。でも、それが1週間たっても3か月たっても変わらなかったので、これは何か大変なことが起きてしまったんだと理解した」

「懸賞生活」終了後は、いろいろなバラエティー番組やドラマへの出演などが相次いだが、なすびにとってはしっくりこないものだった。

「テレビ業界でも世間にしても僕に求めるイメージと実際の僕とがかけ離れていることに気づいたんです。僕は本当のことを言うと、ハガキを書きながら何度も自殺を考えたくらい本当につらかった。僕が人間って怖いなと思ったのは、僕の過酷なあの生活を、世の中の人たちは笑って見ていたということ。もちろんバラエティー番組だから、テロップもついて、効果音も入れられて、楽しげに見えてしまうんでしょう。潜在的な恐怖を感じました。それも洗脳に近いですよね。笑えない状況なのに笑ってしまう、という」

 世の中には自分の虚像のほうが定着してしまっていた。そこで彼は、自分のやりたいことを見つめ直してみた。

「よくよく考えてみたら目指していたのは喜劇役者だった。それが本当に僕がやりたいことだったと、いろんな失敗を繰り返しながら思っていきました。そして活動の場を舞台に移すようになったのです」

ふるさとの福島に恩返しがしたい

 なすびは、'05年から'10年の5年間、福島県内のローカルテレビ局で、土曜夕方の30分の旅番組のレポーターを務めた。

「福島の各市町村を全部、回りました。そこで、福島県内のみなさんに本当によくしてもらった。そのうちに福島出身という自覚が生まれて、何か福島に恩返ししたいなと思うようになりました

 そして'11年3月11日。東日本大震災、そして福島第一原発の事故が発生する。

「福島に恩返ししたいと思っていたのに、何ひとつできなかった。それが本当に情けなくて悔しくて。自分はなんて無力なんだろうと思いました」

'08年、叔父の家でたまたまナスの漬物があったので記念写真。舞台に熱中していたころ

 なすびは、その年の4月の終わりに、まず父方の実家のあるいわき市を訪ねてみた。

「その風景は、僕が記憶していたものとはまったく違うものでした。一面瓦礫の山で。僕ひとりじゃとてもできることはないかなと思ったんですが、たまたま以前番組で訪ねた食堂を見つけた。働いていたおばさんたちは無事でしたが、被害はひどかった

 なすびの姿を見つけて駆け寄ったおばさんは、彼の手を握りしめ、「なすびちゃん、来てくれたんだ。ありがとうね。でも、ごめんね。なすびちゃんと撮った写真もサインもみんな流されちゃった」と涙を流しながら言ったのだった。

「そのとき思ったんです。僕でもできることはあるかもしれない。福島出身者として、とにかく被災されたみなさんと触れ合うことじゃないか、と思いました」

 それからなすびは、復興物産展などに勝手に駆けつけ、販売を応援した。

「電波少年を見ていた人が“あ、なすびだ”と足を止めてくれるんです。写真を撮ったりして、ついでに何か買っていこうと、微力ですが売り上げに貢献できたんですね。それから、客寄せパンダでもなんでもいい。福島の旗を振っていこうと決めたんです