コーチに個人レッスンを懇願

 三重子さんの水泳のスイッチは完全にオンになった。それまで我流で練習した泳ぎを、コーチに習おうと思ったのだ。白羽の矢が立ったのは、通っていたスイミングスクールの澤田コーチ(前出)。当時はまだ「長岡本店」で商売を続けていた。交渉事には手土産がなければと思ったのか、商品券を手にこう言った。

「私だけを個人レッスンで教えてください。金メダルをとるまでお願いします」

 体力的に大丈夫かと躊躇(ちゅうちょ)したが、最終的に熱意に押されて引き受けることにした。

澤田コーチの指導と猛特訓の末、長い時間でも浮いていられるコツを身体にしみ込ませた

「目標は体力の維持、最低でも体力が落ちる速度を遅くすることに置こうと思いました。なぜなら90歳で筋力アップは難しいので。使っていない筋肉を使えるようにして維持する。元気で泳ぎ続けていれば、そのうち上位で泳げるようになると考えました」(澤田コーチ)

 泳ぎをつぶさに見ると修正点はたくさん見つかった。しかも素質的に、水泳に向いているとも思えなかった。

「例えば、関節のやわらかさ、まっすぐな姿勢を維持する力、しなやかなキック、力を水に伝える能力……どれもすごいと思える能力はありませんでした。何が長岡さんの能力をアップさせたかといえば、あきらめないで、何度も練習することです」(同前)

 ここでも「為せば成る」精神が発揮されたのだろう。

 翌’06年、さっそく結果が出た。サンフランシスコで開催された世界マスターズで、ついに金メダルを獲得したのである。2年後の世界マスターズでは金メダルは2個に増えた。しかし三重子さんは満足できなかった。能楽のときもそうだったが、「もっともっと」と欲が出たのである。

 澤田コーチは、三重子さんの底知れぬ向上心に驚かされたことがある。

「世界マスターズで金メダルをとれたら、普通は誇らしげな表情をしてメダルを見せてくれるものです。ところが三重子さんは帰国して開口一番、“いや、失敗してね”とか“もう少しこの技術をしっかりせんと”と反省をおっしゃる。試合でいつも課題を見つけておられて、ハンパじゃない向上心だなと思いました」

 三重子さんは94歳のとき、ついに籾殻ビジネスをやめ、水泳にすべての時間とエネルギーを費やす決断をする。

 宏行さんによると、当時から「狂ったように泳ぎ始めた」という。’09年に出場した国内大会は19を数え、泳いだレースも前年の倍近い55本となった。

 100メートル背泳ぎで自身初の世界新を95歳で樹立すると止まらなくなり、合計12本の世界記録を打ち立てた。50、100、200、400メートルなどの背泳ぎと自由形に出場。さらにプールのサイズによって、ターンが多くなる短水路(25メートル)と長水路(50メートル)のレースにも出る。それらすべてで新記録を出したため、多くの記録になったのである。

自宅の一角には、これまで勝ち取ってきた表彰状、トロフィー、メダルがぎっしり並べられていた

 それでも満足しない三重子さんは、平泳ぎへの挑戦を始める。基本的に三重子さんは背泳ぎ専門である。クロールの息継ぎがうまくできないため、自由形のレースでも背泳ぎ。世界記録の数を増やすには新たな泳法を会得するしかないと考えたのだ。

 平泳ぎの上積みもあって、95~99歳区分で、合計18の世界記録を打ち立てた。