息子とコーチの支えで新記録へ

宏行さん同席のもと筆談で取材。大会当日の長時間移動、翌日の筋トレでお疲れの様子
宏行さん同席のもと筆談で取材。大会当日の長時間移動、翌日の筋トレでお疲れの様子
【写真】長岡三重子さんの女学校時代、颯爽と泳ぐ様子など

 そんな三重子さんの生活に転機が訪れたのは2015年、101歳のときだった。

 その年は、三重子さんにとって大きな出来事が立て続けにあった。ひとつは、スポーツイベントで北島康介に会え、冒頭に書いた1500メートルを泳ぎ切ったこと。次にスポーツマンにとって最高の栄誉のひとつ、日本スポーツグランプリを受賞した。この賞は長年スポーツを続け国民に感動や勇気を与えた高齢者に与えられるものだ。その表彰式が、秋季国体の開催地・和歌山県で行われた際、天皇陛下とお話をしたのである。

「おふくろは耳が遠いから、“はー?”と言うと、陛下も近寄って話してくださる。耳が遠いのはいいこともあるもんですよ(笑)。かなり高揚していました」(宏行さん)

 しかし授与式が終わって、心配なことがあった。宏行さんは自宅のある横浜に、三重子さんは田布施に、それぞれ帰るというとき、別れ際にこう言うのだった。

「私は101歳になった」

「それがどうした?」と宏行さんが聞くと。母親は、

「101歳、101歳!」

 と口にするだけ。少し不安げな表情から、言いたいことはわかっていた。

〈一緒に帰ってくれ。そして一緒に暮らしてくれ……〉

 夢見たことのほとんどが叶(かな)い、気が抜けたような状態になったことも気になっていた。しばらくして、宏行さんは妻を横浜に置き、実家で母親と暮らすことになった。

 考えてみれば、このころが体力的にもひとりで暮らせる限界だったのかもしれない。一緒に住み始めてから身体が弱っていった。最近では食欲も落ち、1日700キロカロリー程度しかとれない。101歳のときには50キログラム近くあった体重もいまは34キログラム。1日で起きているのは6~7時間程度で、それ以外は寝ているようになった。買い物も宏行さんが一緒に歩きながら行くが、外を出歩く機会はグンと減った。

普段から練習の予定や励ましの言葉を紙に書いて見せながら会話をする
普段から練習の予定や励ましの言葉を紙に書いて見せながら会話をする

 それでもプールへは週3回休まず通い、およそ1時間練習している。もっと寝ていたいのだろうが、プールに行くというと起きるのは、ある目標があるからだ。

 それは来年、105歳以上の区分でマスターズ大会に出場すること。出れば、新たな世界初の記録が加わる。

 それに備えて、水泳のほか、筋トレと体幹を鍛えるコアトレを週1回ずつ受けている。

 コアトレを担当する大海仁子(おおみよしこ)さん(NCA認定プロフェッショナルコンディショニングトレーナー)によれば、筋肉の弾力を取り戻すリセットコンディショニングを行うと、長年使われた筋肉や、使われなくなり硬くなった筋肉が、きちんと伸び縮みするため動作が楽になるという。

「仕上がりがいい日は、帰るとき、スタッフや事務所の人たちに失敬ポーズをしてくださるんです。その姿勢が美しくて」(大海さん)

 三重子さんはこれまで、転倒などで4回入院した。そのたび、泳ぐのはやめなさいと医師から忠告を受けた。脊椎の圧迫骨折をしたこともあるが1週間で復活し練習を再開。だから医者を信用していないのだ。宏行さんは、母親にとって「幸せとは何か」を考えて競技を支えている。

「結局、自分が楽しいと思えるものがあれば幸せだと思う。もしケガをさせたくないのなら寝かしっぱなしにするのがいい。そのほうが私も楽ですよ。でもね、それじゃつまらんでしょう。楽しいと思えることを少しでも長くできるようにしたいと考えています」

 三重子さんの耳が遠く、紙に書いたほうが理解しやすいということで、今回の取材も筆談のような形で行ったが、別れ際「104年間の人生は長かったですか?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。

「早かった。緊張して生きてきたから」

宏行さん(左)、澤田コーチ(右)に支えられ、来年も世界新記録を目指す
宏行さん(左)、澤田コーチ(右)に支えられ、来年も世界新記録を目指す

 三重子さんはよく「苦は楽の種、楽は苦の種。つらいことはよい薬」という言葉を口にする。籾殻ビジネスも能楽も水泳も、つらいけれど緊張感をもって取り組んできたのだ。

 マスターズ水泳史上初となる105歳の挑戦は、来年1月に迫っている。

(取材・文/西所正道 撮影/渡邉智裕)

にしどころ・まさみち◎奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『五輪の十字架』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓