大ヒット作でも満足しない理由

現在も地元・岡山を拠点に執筆活動を続けている
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 そんなある日、恩師でもある後藤竜二からプレゼントが届く。それが後藤の主催する児童文学の同人誌『季節風』のバックナンバーだった。

「後藤さんにお礼の電話をしたら“単に会員を増やして会費が欲しかっただけ”と言われましたが、私は後藤さんに“書きなさい”と背中を押されたと思いました。世間的には幸せなんだけど、本当は書かない自分がものすごく惨めでしたから。自分自身をもう1度、信じ直す最後のチャンスだと思って、ワープロに向かいました

 執筆時間は、長女が保育園に行っている2、3時間だけ。キッチンのテーブルに座り、一心不乱に言葉を紡いだ。

「時代はバブル全盛期。といっても私はバブルには無縁の温泉街で生まれ育ちました。ならば、ほかの人たちには絶対に書けない温泉街の物語を書こうと決心しました」

 デビュー作となる『ほたる館物語』は温泉旅館の娘が主人公。大人と子どもの世界が分かちがたく結び合い、重なっている世界は、まさに少女時代を過ごした祖母の食堂『山陽亭』。登場する温泉旅館の女将が、どことなく亡くなった祖母ぬいを思い起こさせた。

 やがてこの物語が、あつこの夢の扉をノックする。

『季節風』への投稿を始めて2年ほどたった夏の暑い日。娘を保育園に送り届けてきたあつこのもとに、1本の電話がかかってきた。作品を読んだという編集者からだった。

「“ウチから出しませんか”と言われたときには、頭の中が真っ白になり、にわかに信じられませんでした。大幅に加筆して、この処女作が私のもとに届いたのは、1年後。うれしさのあまり本を抱きしめたまま眠り、もう死んでもいいとすら思いましたね」

 37歳になったあつこは、あきらめかけていた夢をついにその手でつかんだ。

 平成8年の暮れに発売され、全六巻の売り上げが累計1000万部突破の大ベストセラーとなった青春小説『バッテリー』。この小説に初めて目を通したのは元『教育画劇』の編集者・橋口英二郎さんだった。

「1巻のワープロ原稿を編集部で読み始めると、周りの音が聞こえないほど引き込まれ、一気に最後まで読み、すぐに連絡をとりました。今まで本を読まなかった男の子からも多くの声が寄せられ驚いたことを覚えています」

『バッテリー』は中学校入学直前の春休み、天才的な才能を持つピッチャー巧が転校した先でキャッチャー豪(たくみ)と出会い、最高のバッテリーを組む青春小説である。

「大人やチームメート、仲間に影響を受け、変化して生き延びるのではなく、抗(あらが)うことで周りを変え、押しつけられた枠を食い破っても生きる少年の魂を描きたかった。

 夢や将来をちゃんと語らず押し殺してきた過去の自分に対して、悔しい思いがあるんです。少年とともにもう1度、抗う力を獲得したい。『バッテリー』は押しつけられた少女の枠が苦しくてたまらなかったのに、抜け出せずにいた10代の私自身への思いでもありました」

 あつこは10年の年月を費やして、巧の1年間を克明に描き切ろうとあがいた。

 発売した1巻が野間児童文芸賞を受賞。2巻が日本児童文学者協会賞を受賞。NHK・FMでドラマ化されたころから『バッテリー』はブレイクの兆しを見せ、平成15年に角川書店から文庫本が発売されるや、マンガ化・アニメ化をはじめ、平成19年には人気若手俳優・林遣都主演で映画化。翌年にはNHKでドラマ化もされ、一大ムーブメントを巻き起こした。

 当時はまだ、児童書が文庫化されるのは珍しいケース。上司を説得して発売にこぎつけたのは『KADOKAWA』文芸局の岡山智子さん。“オニ編”の愛称で呼ばれている。

「率直に感想を伝えるので、あさのさんに“ムムッとしたけど、言っていることはよくわかる”と納得していただいたこともありました。サイン会のため大阪駅で待っていたら、バスから転げ落ちひざを擦りむいたりするなど、あわてんぼうな一面もありますが、とにかく謙虚で可愛い方です」

 児童文学の枠組みを超え、大人の心もとらえた『バッテリー』。

 だが、あつこはこの作品に満足していなかった。

「巧にはボールがあり、私には言葉がある。決して砕けない強靭な言葉を持って、13歳の少年が現実を、大人を変えていく物語に挑みました。でも途中で、巧という少年がわからなくなった。明確な意思で終盤に到達したわけではなく、限界ギリギリで手放してしまったというか。私は彼をつかまえられなかったんです」

『バッテリー』を世に出した橋口さんは、担当編集として、こんな思いを語る。

「最後まで書き終えても、主人公の巧をとらえきれなかったという思いを、死ぬまでに晴らしてほしいですね」

 再び、主人公・巧と対峙(たいじ)する。そんな日を多くのファンが待ち望んでいる。