一方で、妹の未捺さんや母のしろえさん、祖父の弘さん(当時67)は遺体で見つかった。

「震災当日は母親の誕生日で前日にお祝いをしていました。そのとき、焼き肉をしたってことしかもう覚えていません。母は寝込んでいたので、甘えた記憶がないんです。おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子でした。

 震災で3人が亡くなったけど、僕には何があったのか理解できないでいました。当時は、毎週毎週、誰かの火葬があったので麻痺していたんです。亡くなった実感がなかった。いちいち悲しんでいたら身がもたなかったんです

忘れることも必要

津波はがれきや土砂を巻き込みながら小学校まで到達した
津波はがれきや土砂を巻き込みながら小学校まで到達した
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 小学5年生の哲也さんはあまりにも大きな人生の渦にのみ込まれ、それを処理するのは容易なことではなかっただろう。

「1月20日は妹の誕生日。今年もいつものように親父がケーキを買ってきました。おばあちゃんと3人でいつも“生きていたら、何歳になるね”という会話はするけど、悲しくなったりはしません。僕にとっては、妹は小3で止まっていて成長した姿を想像できない。どういう性格だったというのは覚えているけど、もう声も思い出せない

 ときどき、震災前の家族で映っているビデオを見ることがあるという。

「ビデオは震災の4~5年前のものなので、震災当時の声とは違います。家のあった場所に行っても思い出せないのと同じようなもの。思い出せないのは悲しいけど、忘れることも必要だと思う。アルバムをめくったときに思い出せればいい

 震災で慌ただしい中、哲也さんは大川小の生存児童として取材を受け続けた。悲しいと思えるようになったのは高校生になってからだという。

「時間がたてばたつほど、震災前のことを思い出してつらくなりました。それまでも思い出さないわけではなかったんですが、極力考えないようにしていたんだと思う」

 高校生まで自分の気持ちに蓋をし、この8年の間に心境の変化を繰り返してきた。

「言うのがつらい時期もあった。それに気を遣われるのも嫌だったので、嘘をつくわけではないけど、被災して、家族を亡くしたことを知られないようにしていた」

 常に“生存者”としての行動を期待される日々。哲也さんは自身の役割を全うするかのように大川小学校校舎保存の活動を始めた。

「校舎を保存してほしい」