当時は雅子さまもお妃候補というご自覚がなかったのですが、情報提供者によれば「いずれは、お妃候補になってくるはず」と話していたのです。しかし、その話と同時に「本人にお妃候補としての認識がないので、報道が先行すると、逃げ出す可能性もあるから報じないほうがいい」と、一部の情報提供者からは記事にすることを反対されていました。しかし、他社も雅子さまの周辺を取材し始めるなど、情報が漏れ出していました。

'87年12月、沢田さんが雅子さまに初めて直撃取材を。すでにオーラがおありだったという
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海外取材は自分でレンタカーを借りて

 他社に抜かれるわけにはいかないスクープ情報だったので、情報提供者の理解は得られませんでしたが、踏ん切りをつけて、ご本人に直接取材をかけ、新年合併号のトップ記事として入稿しました。

 入稿翌日から、複数の新聞記者や皇室ジャーナリストに、雅子さまの存在について情報提供していきました。狙いは2つあり、雅子さまの存在を教えてくれた情報提供者を守ること。もうひとつは、前号の1・8倍も発行部数を増やした『週刊女性』を売り切るためでした。

 各社でも雅子さまの存在を報じてもらうことで、話題を盛り上げる必要があったからです。

 陛下ご自身が、雅子さまを好いていらっしゃったので、イギリス留学という理由だけで、陛下があきらめる可能性は低いだろうという情報もあり、私たちも留学先に行き、雅子さまの取材を進めていたんです。

 ちょうどその時期に、陛下がベルギーを公式訪問される機会がありました。その日程の最後の日、パリに1泊されるという。「もしかしたら、雅子さまとお会いになるかもしれない」との観測が流れました。パリでハイヤーを手配して1日中、陛下を追いかけたのですが結局、空振りだったんです(笑)。

 海外取材といえば、陛下が留学していた英オックスフォード大学からの帰国途中に20日間ほどアメリカ各地を訪問することになったので、その期間もずっと追跡取材をしました。

 最後の訪問地・サンフランシスコでは、雅子さまをのちにお妃候補として推薦する外交官出身の東宮職参与・中川融さん(故人)が主席随員でした。「大変だったでしょう」と声をかけていただきました。