「日本のコーヒー」のために

 バッハの思いは編集者である山内さんを動かした。

「田口さんには自分の店やグループだけでなく、日本のコーヒー全体をよくしようという志がありましたから、雑誌への寄稿を何度もお願いしました。毎晩のように明け方までコーヒーについて語り合った時期もあります。睡眠不足でしたが、いい時間でした」

 護が「日本のコーヒー全体のために」という志を持ったのは、ある人物の影響が大きい。テレビからも出演依頼が来るようになり、自分ばかりが目立つようで気が引けていたとき、UCCグループの前会長、上島忠雄さんから諭された。

「田口さん、テレビに出ないとか言っているようだけど、あなたのために出るんじゃないんだよ。コーヒーのために出てください」

 その言葉を聞いて、護は赤面したと振り返る。

「本当に恥ずかしい思いをしました。あのとき、それを言われていなかったら今の私はありません。それ以来、自分にできることはなんでもやろうと思いました」(護)

 雑誌ではカフェ特集が組まれ、テレビ出演、講演も増えた。海外のコーヒー農園を視察し、買い付け、自家焙煎やカフェの経営を学ぶための講座もはじめた。スタッフの数は増え、文子は50歳から本格的な製菓を学び、護は日本や世界を飛び回った。かつて山谷と呼ばれた地域に多くの人が美味しいコーヒーを求めてやってくるようになった。日本各地、そして海外からも。

'92年キューバ視察。農園の生産者と護(左)
【写真】カフェ・バッハの歴史、文子さんのグランドハープ

「もっといい場所に移転をしないか、支店を作らないかという話も何度かいただきました。でも、この地域だからこそのカフェ・バッハです。地域とつながり、人をつなげ、そこからまた新しい文化を生み出すカフェでありたい」

 護のその思いを支えるいくつものエピソードがある。

「日雇いの仕事がない雨の日は、お客さんと一緒に落語を聞いて、コーヒーのおかわりはしなくていいとお茶を出してみんなで笑った。コンサートの後、みんなでワイワイと歌っているときに初めて父親の歌声を聴いて、“お父さん、歌うまいんだね”と喜んでいた子は音大に進んだ。

 近所のお母さんたちから“子どもが学校に行けなくなった”“息子の成績が下がって困っている”と相談があれば、学生さんを紹介して2階で勉強会を開いた。そんな町を離れられないよ」(護)

改装後の外観。コーヒーを飲むバッハがトレードマークに 撮影/伊藤和幸

 常連客だった労働福祉センターの社会福祉士、“小川さん”の仲介で、'95年からは精神障害のある人たちが就労する豊島区の事業所『cafeふれあい』にコーヒーを提供している。

 また、'00年からは、台東区で初めてできたハンディのある人たちの運営する『Cafe香逢』のサポートも行うようになった。店長の坂本信江さんは田口夫妻への思いをこう語ってくれた。

「メンバーと一緒にご挨拶にうかがったとき、マスターが、“自分たちを過小評価してはいけないよ。バッハはなくなってもいいけど、君たちのお店は生き残っていかなきゃいけない”と言ってくださった。その言葉を胸に、店を続けて18年です。ママさんにお店のお客様のことで悩みを相談すると、“いま話したでしょ。それで流れていくのよ。ためちゃダメよ”と声をかけてくださった。おふたりは、いつも人の心を落ち着かせるようなお話をしてくださいます」