バッハの進むべき方向

 その旅を通して、ふたりは「人が集い、文化や芸術の拠点となるカフェの役割」を強く再認識する。「自分たちの暮らす場所を一等地にすればいい」「山谷を銀座にしよう!」を合言葉に、カフェ・バッハの進むべき方向を見据え、さらに突き進む。

 その後、定休日を利用して近現代の歴史を勉強する「バッハ会」も始めた。その会に大学生のころから参加していた冨田直樹さん(58)は、毎日のようにバッハに入り浸っていた。学生時代の田口さんを彷彿とさせる。

「当時はマスターがカウンターでコーヒーを淹れ、客に話しかけてくれました。常連には映画、音楽、歴史、それぞれに詳しい人がいて田口夫妻や彼らから多くのことを学びました。ときには生き方を問われ社会や世界を見る目も教えてくださった。お前、そんな考え方でどうするんだと厳しくやられたものです(笑)。マスターやママさんからの影響は本当に大きい」(冨田)

 バッハ会では6、7人の有志が集まり、月に1度、テーマを決めてコーヒーを飲みながら議論した。その経験は冨田さんの人生を変えた。

「大学入学当時は手堅く商社にでも勤めようと思っていたんです。でも、日本や世界の近現代の歴史を学んだことで40、50代の大半を教育支援を行う国際協力NGOに費やすことになりました」(冨田)

 向学心のある若者が集まり年長者も同じ目線で対等に議論をする。ときには人の人生を変え、そのひとりの動きが社会を変える力となる。まさに革命や文化の起点となったヨーロッパの本場のカフェのような存在となっていた。

 もちろん、カフェの軸となるコーヒーの味を研ぎ澄ますための技術の追求にも労をいとわなかった。欠点のある豆を1粒1粒取り除くハンドピックを極め、自家焙煎を始めたのは'72年のことだ。既製の焙煎機では微調整に納得がいかず、焙煎機まで共同開発するに至った。

ハンドピックにより、よい豆だけを残す。右が山田康一さん 撮影/伊藤和幸
【写真】カフェ・バッハの歴史、文子さんのグランドハープ

「私は趣味で写真もやっていたので、カメラのシャッターの絞りや仕事量の調節への理解が、焙煎の理論構築にも非常に役立ちました。何キロ豆を入れるのか、どのくらい空気を入れるのか。ボイラー整備も写真も豆の焙煎も、それぞれに“物差しを持つ”ことが重要です。そうすれば、漠然とした感覚に頼るだけでなく、繰り返し誰もが再現できるようになる」(護)