西光とともに収監されていた労働運動家・高田鉱造は、昭和3年(1928)の「三・一五事件」で検挙された。マルクス主義者約1600名を一挙に検挙、うち500名近くを起訴したという、政府による恐るべき弾圧事件だ。後に高田は『一粒の麦』(大阪労働運動史研究会)という自伝で、収監された奈良刑務所の様子を詳しく描いている。

『奈良監獄物語 若かった明治日本が夢みたもの』(小学館)より
『奈良監獄物語 若かった明治日本が夢みたもの』(小学館)より
【写真】歴史ある奈良監獄の味わい深いイラストはこちら

 食事の貧弱さ、待遇の悪さはもとよりだが、互いに言葉を交わさないようにと、一つ置きの独房に入れられて、連絡が取れず、孤独地獄だったという。

 そんななか、彼らは工夫を凝らし、あらゆる手段を使って連絡を取りあう。その様子は、まるで映画のシーンを見ているようだ。

 やがて、それも発覚し、さらにきびしい監視の目が光る。彼らは常に、強く「転向」を迫られていた。高田はついに転向しなかったが、西光万吉は転向。出所後、国家主義者となっていった。

 刑務所では作業が課せられ、高田は下駄の鼻緒の芯を作っていた。

芯に新聞紙が使われていることがあり、三ヶ月〜半年遅れの新聞を読むことができた。活字に飢えている者にとっての心のオアシスだった》(『一粒の麦』より)

 思想犯は考え事をするので、刑務作業がはかどらなかったそうだ。凶悪犯のほうがずっとまじめに取り組み、ノルマもよく達成したという。

凶悪犯から仕事を取りあげると、時間潰しに閉口し音をあげるところから、懲らしめのために仕事を与えないという罰則すらあったくらいだ》(『一粒の麦』より)

 世に言う「凶悪犯」のほうが勤勉だったとは、おかしくも物哀しい。いま、刑務所にいる人々にも通じる。どこかきまじめで不器用な人が、犯罪に追いこまれているのだ。

 高田は過酷な刑務所生活を乗り切り出所。その後も信条を曲げず、共産党関西地方委員などを歴任、平成9年(1997)に93歳で没している。

 自由であるべき人の心を、権力が制限し、裁く。そんな道具として使われた歴史が、この美しい刑務所にもあったのだ。

囚人たちによって運び出された仏像

 百年を超える歴史のなかで、もうひとつ、特筆すべき出来事があった。太平洋戦争の末期、囚人たちが仏像の疎開に駆りだされたのだ

 よく、京都と奈良には貴重な文化財があるので米軍は空襲を避けたと言われているが、それは嘘だ。京都は原爆投下の候補地のひとつにされていたため、その効果がわかるように温存され、奈良にも空襲はやってきた。東大寺の大仏さまは、さすがに動かせないが、運べる仏さまは運んで疎開させようということになった。ところが、男たちは徴兵され、人手がない。白羽の矢が立ったのが、奈良刑務所の囚人たちだった。

 興福寺の八部衆と十大弟子は、布でぐるぐるに巻かれ、囚人とともに列車に揺られた。たどりついたのは、桜で有名な吉野のお山。急な七曲坂を、仏さまたちは担架にのせられ、囚人たちの手で運ばれた。村長の家の土蔵に匿(かくま)われたのだが、極秘にしていたので、隣の住民さえ気づかなかったという。

 その中には、あの有名な阿修羅像もあった。もっとも罪深いとされる人々が、もっとも聖なる仏像を守ったのだ。いかにも奈良らしい逸話だ。

 しかし、ほんとうに罪深いのは囚人たちではなく、日本を戦争に招いた国の上層部の人々だったのではないか。人権を守るという高い理想を掲げて造られた煉瓦造りの刑務所も、国を戦争に導く思想統制の道具として利用された時代があった。その悲しい闇の歴史を、わたしたちは忘れてはならない。