1億円以上を配りまくったのに……

《3》お金はあるけど、人望がなかった!?

 天正10(1582)年6月2日、光秀は本能寺の変で信長を討ち取った。その3日後、信長が築いた安土城に入城すると、そこには天文学的な大金が眠っていたという。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの日本史によれば、光秀は大いに気前よく、配下の武将に大金(1億円以上!!)を配りまくったそうだ

 その後、京都に戻った光秀は、朝廷のお偉方にも献金して回ったというから、この世の春を謳歌していたに違いない。フロイスが数字を盛っている可能性もあるものの、いずれにしても大盤振る舞い状態だった。

 ところが、ここまでバラまいたにもかかわらず、光秀に味方がついてこなかったというから、敵は本能寺どころか己にあったのではないかと疑いたくなる。「本能寺の変」の直後、秀吉が中国地方から舞い戻る、かの有名な「中国大返し」でスピード帰京する前から、このバラまきは行われていた。

 が、味方が集まらない! 一方の秀吉のもとには、雑兵レベル1人あたり50万~60万円程度と言われるお金で、「働きたい」という兵が十分集まったという。お金はたしかに大事だけど、人望はもっと大事だということを、光秀は教えてくれている

《4》最期まで“お金”の力を使おうとした

 光秀の城として有名な丹波・亀山城を築く際、110人の作業員に支払われたサラリーは(といっても当時は米)、当時の平均相場を25%も下回る額だったとか。

 いま、そんなことをしようものなら、きっと耐震構造に問題のある城ができあがるだろうに……。

 そんな性格が災いしたのか、最期もお金が絡む光秀。中国地方から戻った秀吉との決戦「山崎の戦い」で敗戦した際、イエズス会の書籍『耶蘇会(やそかい)士日本通信』によると、敗走中の光秀は「土民」たちに「莫大の黄金を与ふるを約し」、逃亡の手伝いを頼んだという。

 しかし、「土民は光秀を信頼せず、彼を殺して首を取り、同時に所持していた僅少の品物を奪って逃げたというから切なすぎる……。