そんな父の苦労を知ってか知らずか、あるいは照れ隠しか、憲満さんは当時を振り返ってこんな憎まれ口を言う。

「お父さんや家族に悪いことをしたとかは、そう思うところもあれば思わないところもある。好きな物を買ってくれたりいろいろなことをさせてくれ、こういう(絵が描ける)生活をさせてくれたことには感謝している。

 でも、(障がいを理解してもらえず)厳しいことを言われたり、“他人はこうするんやで”とか言われたりしたのは、今も(悔しさとして)残ってる」

 父子間の理解というのは、本当につくづく難しい─。

きっかけはギャングゲームの街並み

 小学校を卒業した憲満さんは、滋賀県立八日市養護学校中等部進学を選択した。この選択を満さんが振り返る。

「最初、本人は養護学校でなくて普通の学校に行きたいと。どこへ行ってもいいと思ったけれど、養護学校は体験入学があるし、普通の中学に行っても、普通クラスでなくて特別支援学級になる」

 試しに親子で養護学校の一日体験入学に行ったとき、満さんはその様子に驚いてしまった。

僕にしてみたら、養護学校に少し偏見を持っていたんです。知的に遅れてはるとかね。それが全然違った。みんな頭はしっかりしてはるし、生徒さんたちは積極的に手を上げて先生の質問に答えている。うちの子なんて学校には行ってるだけやったのに。思っていたよりいきいきとしているなあ、と。そしたら本人が、“お父さん、僕、養護学校に行くわ”。そう言うんです」

 この中学生時代、憲満さんのテーマであり主要なモチーフとなったものと出会う。

「中学2年のとき、先生が優しくて、授業中も絵を描かせてもらっていたんです。ちょうどその時、従兄弟から18禁のギャングが主役のゲームを借りていて、犯罪のゲームだから街が出てくるじゃないですか。大きな道路があったり車があったり。それが参考になって、落書きノートとかA4の紙を貼りつけたりして街を描いたりとかし始めた。

 そのゲームは教育上よくないものだったけど、ゲームのおかげで絵の幅が広がって、今も一部参考になっています」

作品に顔を近づけ色鉛筆で細かく色づけをしていく憲満さん。「軍歌」などテンポのいい音楽を流しながら描くことも 撮影/伊藤和幸
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 以来、街がもっとも重要なテーマとなった。現代人は建物などの人工物なしに生活することはできない。人と街は不可分なものであり、街のありようは現代人のありようそのものなのだ。

 今では高い評価を受けるそんな絵も、当時はA4の画用紙に描いていた。チラシやカレンダーの裏に描いていたこともある。家での評価は否定的だったが、学校では“すごい!”と褒められた。

「褒められて、チヤホヤされてうれしかったですね。誰でもそうでしょ?」

 2010年、中等部を卒業した憲満さんは滋賀県立八日市養護学校高等部に進学。ここで才能の開花をバックアップした、2人の恩人と出会うこととなる。