渡辺は急激な環境の変化に戸惑った。

「それまで『貸せ貸せ』と言っていた会社が、本部に3年いる間に『貸金を回収せよ』と方針転換したんです。これには驚きました。指示どおり、銀座の取引先に出向くと『急にそんなこと言うんですか』『手のひらを返すんですか』と反論され、泣きつかれましたね。半年前までお金を湯水のように使っていたオーナーが、経営が苦しくなってきて家を抵当に入れ、奥さんに三下り半を突きつけられたあげく、倒産して一文無しになるというケースも目の当たりにしました。

 バブル崩壊を乗り越えた取引先の経営者が『お金が紙に見えたとき、人間はいちばん傲(おご)っているんだ』とつぶやいた言葉は、今も脳裏に焼きついて離れません」

出社直後の床掃除からスタート

 まさに、ドラマ『半沢直樹』の世界だ。いわゆる「貸しはがし」を容赦なく求める銀行の体質に、渡辺はついていけなくなってきた。そんな'92年夏、6代目の祖父・達三さんが病に倒れ余命1年と宣告された。祖父には幼いころから可愛がってもらっただけに恩返しをしなければいけないという思いはあった。それを機に「家業に携わりたい」という気持ちが強まり、彼は父に決意を打ち明けた。孝至さんはそれを耳にしたときの感情を克明に覚えている。

「生まれたときからいつか跡を継がせたいという思いがあったので、息子の申し出をとてもうれしく感じました」

高校時代は中学時代から一変して遊びに夢中だったが、勉強は要領よくこなし、希望の学部へ進学を果たした
高校時代は中学時代から一変して遊びに夢中だったが、勉強は要領よくこなし、希望の学部へ進学を果たした
【写真】450日熟成させたものなのに消費期限はわずか2日、船橋屋のくず餅

 こうして'93年3月いっぱいで銀行を辞め、船橋屋の一員として再出発することを決めた。それに当たって、彼はひとつの覚悟を胸に刻みつけたという。

「景気の変化に左右されて落ちていく経営者には絶対にならない。常に利益を上げ続けなくてはダメなんだ」と。

 前述のとおり、船橋屋の創業は1805年。徳川幕府11代将軍・家斉の時代だ。明治から昭和にかけて芥川龍之介や永井荷風、西郷隆盛も訪れたというが、215年もの長い間には苦境に瀕したときもある。最大の危機といわれるのが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲。米軍のB29戦闘機が10万発以上の焼夷弾を落とし、東京は焼け野原になり、船橋屋も工場・家屋のすべてを焼失したのだ。しかし5代目・房太郎の妻・みえが、戦火のなか、くず餅の原料である発酵小麦でんぷんの樽を地下に埋めて守ったことで、その後も商売が継続でき、発展した。

 入社した渡辺は、まず工場でくず餅の作り方を学んだ。出社直後の床掃除が、将来の8代目となる専務取締役の第一歩であった。

 くず餅というのは、小麦粉を練って水洗いし、必要なでんぷん質だけを沈殿させ、発酵させたもの。でんぷん質を木の貯蔵槽に入れて450日間じっくりと熟成。貯蔵槽に付着した乳酸菌による発酵によって独特な歯ごたえと風味が生まれる。これを蒸し上げ、食べやすいサイズに切るのだが、蒸し方や切り方によって味わいが変わるし、くず餅にかける黒蜜やきな粉の製造にも繊細さが求められる。しかも無添加であるため、450日熟成させたものなのに消費期限はわずか2日。彼らは「刹那の口福」と称しているが、高度な職人技が凝縮された工程を渡辺は学んでいった。