常に頭の片隅にあった「自分は8代目」

 自由を満喫していた小学校時代から一転して、卒業後は一家で都内へ引っ越す。長男である渡辺は千代田区・麹町中学校に進むことになった。同中は名門私立中学校に入れるくらい学力優秀な子どもが集まる。学校も広々とした400mトラックのある船橋時代とは打って変わって、150mのコンクリートのトラックしかない。環境の激変に少年は戸惑うばかりだった。

父の靴をはいて笑顔を見せる渡辺。祖父母が大好きだったという
【写真】450日熟成させたものなのに消費期限はわずか2日、船橋屋のくず餅

「中1の中間テストの成績が学年331人中306番。当時は全員の順位が廊下に貼り出され、自分も『このままだとヤバい』という気持ちになりました。担任の先生から『落ちこぼれに半分足を突っ込んでます』とまで言われました。親父はもともと僕の勉強には熱心でしたが、『このままじゃ大変なことになる』と考えたのか、家に帰るとほぼ毎日、自ら家庭教師に。

 一方的に勉強を押しつけられるのは嫌でたまらなかったけど、実際に成績は悪いし、やるしかない。嫌々でもやれば成績は上がっていき、褒められてうれしいことはうれしかった。でも、やりたくて始めたことではなかったので、僕自身としてはどこか納得がいかなかったですね

 最終的には学年で20番台まで成績を上げ、立教高校に合格。両親はとても喜んでくれた。だが、無理強いされる理不尽さに違和感を覚え続けた中学3年間だった。

 立教高校時代は学生生活を大いに楽しんだ。週末になると六本木の人気のディスコに繰り出しては羽目をはずしていた。当時からの親友で現在は会社を経営する土屋毅さん(56)は、こんなエピソードを披露する。

2歳下の妹と。小学生のころは、近所の仲間たちを従えて飛び出していくようなガキ大将タイプだった

「雅司とは高2からの付き合い。ウチの高校は中小企業の経営者の息子が多くて、同じような境遇ということで意気投合したんです。よく遊びに出かけましたね。雅司は松田聖子の大ファン。コンサートも最前列を確保するほどの熱の入れよう(笑)。そこで撮った生写真を自慢げによく見せてくれました。高校卒業直前には一緒に教習所に通って、18歳でスカイラインに乗ってましたけど、興味があるものは貪欲に取りに行く。その姿勢は今も変わっていないと思います」

 立教大学時代もテニスサークルに入り、青春を謳歌していた。ただ、頭の片隅には「自分は船橋屋の8代目。いつかは家業を継ぐんだろうな」という思いがあり、経済学部で学ぶ傍ら、専門学校に通って簿記の資格を取得した。老舗で育った彼には「お金の流れを制する者はすべてを制する。会計に強ければビジネスマンとして必ず成功する」という信念があり、それを実行に移したのである。

 進路はその延長線上にあった金融を選択。'86年春、三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行する。前年の'85年のプラザ合意の影響で、円高ドル安が一気に進み、投機などが活発化したこともあり、本人はディーリングを手がけたいという夢を描いていた。最初の配属先は日比谷支店。最初の2年間は融資、次の3年はディーリングを担当したが、「とにかく貸せ」というイケイケ時代の行員としてエネルギッシュに働いた。

 そして'91年春には銀座支店へ異動。赴任した当初は並木通りに絵画ギャラリーがまだズラリと並ぶような華やかさだったが、徐々に状況は変わりつつあった。カネ余り状態から株価が下落し、地価も急降下。これまで高級店で接待してくれていたような取引先の経営に黄信号が灯り始めた。