県外へ出るハードルは高かった

 1973年10月、兵庫県伊丹市で森松さんは生まれた。1つ上の兄と森松さん、7歳差の妹の3人きょうだいは、男も女も関係なく平等に育てられた。「女の子だから」と何かを制限されることもなく、父とのキャッチボールも兄と同じようにやった。

3人きょうだいの長女として、男女関係なく平等に、のびのびと育てられた森松さん
3人きょうだいの長女として、男女関係なく平等に、のびのびと育てられた森松さん
【写真】森松さんの住む郡山市から60km、水素爆発で白煙を上げる福島第一原発3号機

 中学校からは、中高一貫の私立同志社女子中・高等学校に通い始めた。毎朝、礼拝の時間に聖書を読む時間があり、森松さんはとても関心を寄せ、熱心に話を聞いていた。日雇い労働者の町で炊き出しをしている牧師、ハンセン病患者の支援をしている人など、社会課題について講師が話をしに来てくれることもあった。このときに聞いたさまざまな話は、今につながっていると森松さんは言う。

 中学2年生のときの担任だった大西恵美さんは、森松さんをよく覚えている。

成績も飛び抜けてよく、スポーツもできて、利発クラスをまとめて、文化祭や体育祭を盛り上げていました先を見通して、はっきり意見を言える子でした

 大学では法学部に進学。進学の際、ある企業の返済義務のないスカラシップ生(奨学生)に合格した。

 このスカラシップ制度での奨学生同士の交流は、森松さんにさまざまな人との出会いをもたらした。のちに学者や研究者、官僚、医療従事者、議員、経営者、音楽家や芸術家になるなど、多様な価値観を持つ人たちだった。夏はキャンプ、冬はスキー合宿など、泊まり込みで深い討論も行い、意見は違っても互いを尊重し、理解し合えるという貴重な経験を積んだ。

 大学時代は、大手進学塾から派遣される塾講師と家庭教師のアルバイトを始めた。

子どもを教えるのは楽しかったんですお寺の集会所で教えていたクラスは、進学塾というよりは、まさに『寺子屋』のようでした

 評判が広まり、毎日のように寺子屋に子どもが集まるようになった。

 当時は就職氷河期。森松さんは、大学4年間、家庭教師として派遣されていたその塾に就職が決まっていた。しかし、バブルが崩壊し、卒業間際でその塾が倒産。「この先どうしよう」と思っていたところ、「寺子屋を続けてください」と子どもたちの保護者からお願いされた。

 その一方で、大学在学中にスポーツジムのインストラクターの資格も取得し、大手企業が運営するジムで、昼間のクラスも担当していた。 

 ジムでは日中は、比較的健康な高齢者が参加することが多い。ひざに負担がかかりにくい水中のアクアビクスや、青竹踏みを取り入れたエアロビクスなどを、学びながら教えていた。もともと命や健康に関心のあった森松さんは、「スポーツジムも素晴らしいことをやっている」と感じていた。

 昼間はジムのインストラクター、夜は寺子屋で子どもたちを教える日々を続けていたが、「インストラクターの仕事は体力的にも長くは続けられない」とも考えていた。そのため、27歳のとき、中途採用で兵庫県尼崎市の医療系の団体に就職。地域医療や福祉、予防医学など、これまでのスポーツジムの経験が活かせると森松さんは考えた。関心のあった命や健康、医療・福祉分野には関われると思ってのことだった。

 就職して2年目、東京の本部への異動を命じられた関西圏から1歩も出たことがなかった森松さんは、東京に行くことに躊躇(ちゅうちょ)し、大学時代を東京で過ごした兄に相談した

 兄はそんなチャンスは人生で絶対に来ない。東京は日本の首都だから、視野も経験も広がるし、1度は関西を出てみて経験を積んだらいいよと、背中を押してくれた

このときの私の気持ちは、避難をしたくてもいきなり福島県を出るなんてできない、と思う人の気持ちと同じだったと思います県外や、まして東京に行くハードルは高く、怖かった

 東京に出てきた森松さんは、残業や出張の多いハードな仕事を続けていた。そんな中、新司法試験制度ができたことを知る。社会人経験のある人が法曹になるための司法改革としてロースクール制度が導入された。

 森松さんは医療事故の問題を近くで見聞きしていたこともあり、医療訴訟に関心があった。そこで、関東のロースクールに出願。晴れてロースクールの1期生になった。

「ロースクールでも、多様な社会人経験を重ねた友人や恩師と出会えました。そのことは、いまに影響しています」