母子避難を決意させた息子の表情

 4月になり、息子の幼稚園の近くに住むところを決めた。それからの暮らしは、被ばくを避けるため、日常生活と呼べるものではなかった。洗濯物は外に干せない。自分も子どもたちも自宅に缶詰め状態。買い物は24時間営業のスーパーに仕事帰りの夫が立ち寄り食料品・日用品を買う。

 息子の入園式の日。被ばくを恐れながらも、娘をベビーカーに乗せて幼稚園に向かった。大切なお祝いの日だ。子どもたちの晴れの日の写真を撮る保護者に、園長先生が言った。

もっと写真を撮っておいてください

 森松さんが不思議に思うと、園長先生は、郡山市にも放射性物質がずいぶん降ったこと、実際に幼稚園内も測定したこと、少ない線量でも浴びないほうがよいことを話し、明日以降は、幼稚園の制服は着ないで、長袖・長ズボン・分厚い上着を着用させてくださいと言ったまた、園庭での外遊びを一切させないことも告げられた

 森松さんはショックを受けつつ、「やはりそうだよね」と納得していた。100人ほどの入園予定者が、70人に減っていたことも知った。「地面にいちばん近い小さな子どもたちが、いちばん危ないよ」と、幼稚園の先生やほかの母親から教えてもらったため、翌日から娘をベビーカーには乗せず、抱っこひもに換えた。それでも足りないかもしれないと考え、より高い位置で固定するおんぶひもで送迎するようになった。

 当時は、小・中学生の保護者たちも、子どもたちを守ってほしいと声を上げ始めていたころだ小佐古敏荘内閣官房参与が、政府の子どもへの被ばく対策を批判し、この数値(校庭利用基準の年間20ミリシーベルト)を、乳児・幼児・小学生にまで求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れることができませんと、涙ながらに辞任した時期でもある

 幼稚園からは、マスクが束で配布された。森松さんは、マスクができない0歳の娘を外に出さないために、ひとり家に残し、3歳の息子を自転車に乗せて、猛ダッシュで幼稚園と家とを往復するようになった。

 外に出しても危険、部屋に残しても危険な中での、苦渋の選択3歳の息子には「早く! 早く歩いてね!」と急かす暖かい春のきれいな花、草木、虫、小石など、幼い息子の好奇心を揺さぶるひとつひとつに、「ダメ!」「触っちゃダメ!」「拾っちゃダメ!」と言い続けた

 週末になると、山形県や新潟県の公園に、高速道路を使って向かった。家の前にも、マンションに併設された公園があったが、そこで遊ばせることができなかった。

 ある日、県外の公園で遊ばせていたときだった息子が「お母さん、見て!」と小石を見せようとした瞬間、「しまった!」という顔をして、パッと小石を手から放した母に叱られてしまうと身構えた息子の様子を見て、「もう福島で子育てすることはできない」と思っていた

 町からどんどん人がいなくなっていった。週末のたびに、引っ越しトラックが子どものいる世帯を乗せていく。

 その年のゴールデンウイーク、森松さんは、親戚・縁者が多く住む関西へと向かった。一時的な滞在のつもりだったが、福島県内のテレビ報道と関西の報道のあまりの違いに驚愕し、“これはもう福島に帰ってはいけない”と思った。

 夫とすぐに話し合い、急きょ母子避難をスタート。避難住宅として、大阪市内の交通局の官舎に入居できることになった。

“患者さんをおいていけないから、僕は仕事に戻るけれど、何か問題が起きれば、そのつど話し合って最善の方法をみつけていこう”と、夫はひとりで郡山へ戻りました条件がひとつでもそろわなかったら、私は福島にとどまっていたかもしれない、と今でも思うときがあります

 逃げたいと言っていた大切な友人には、言葉を選びながら、避難することを告げた。友人は、逃げたくても逃げられない仕事をしている人だった。友人は、「ありがとう」と言った。思ってもいなかった言葉。

 さらに「森松さんは避難すればいいって思っていた」と言い、「私には避難する先がないけれど、森松さんが避難してくれることで、福島県の外に頼って行く先ができる。ありがとう」と伝えてくれた。この言葉を、森松さんは今も忘れることはない。

避難できた自分の子どもも、放射能で汚染された土地に残る子どもも、等しく大切な命守られるべき命です

 その後、避難できなかった友人は、「放射能のことを意識しないように、考えないように生きている」と森松さんに打ち明けた。一時は避難をしたが、2年後に帰還を選んだ友人も、「ある意味、自分を殺して生きていくんだと思う」と話す。しかし、2人とも口をそろえて「人には言えない」「話しにくい」とも語っていた。

「放射能」「汚染」「被ばく」という言葉はタブー化され、タブー化が進むほど事実が共有されなくなるため、被害がなかったことにされてしまう。「その言葉を使うな」という言論封じによって、「命を守る」ことから遠ざかってしまうのだ。

対峙すべきは放射線被ばくであって、被害者同士が分断させられてはならないんです」と、森松さんは言う。