活動を続けていたら本当に死んでいた

 晃のハイトーンボイスや小学生がサングラスをかけるというギャップなどが受け、一気に大ブレイクを果たす。

小学生なのに深夜まで働くのも日常茶飯事。通っていた小学校の先生が理解があって、先生公認で授業中は寝ていたね(笑)。雑誌の取材なんかを入れると、1日に30本ぐらい仕事をこなす日も

 あまりの多忙ぶりに当時の国会で問題視され、児童福祉法が厳しくなったほど。

それで『紅白歌合戦』には出られなくなったんだ。もともときょうだいの中でいちばん身体が弱かったこともあり、日ごろから点滴を打って活動していたし、何度も病院に運ばれた。でもマネージャーに“こんなに楽しみにしている人たちがいるのに、休んだら悲しむよ”と言われちゃうと、なぜか本番は元気にこなせるんだよね(笑)。主演映画を3日半で撮り終えるとか、とにかくめちゃくちゃなスケジュールだったね

フィンガー5になる前のショット。サングラス姿でない晃は右から2番目
フィンガー5になる前のショット。サングラス姿でない晃は右から2番目
【写真】フィンガー5のデビュー前、サングラス姿ではない晃(右から2番目)

 変声期を迎えた7枚目のシングル『華麗なうわさ』を出すころにはこんな事件が。

声変わりをさせたくないマネージャーが、親の許可なく女性ホルモンの注射を打たせようとしたんだ。でも女性ホルモンを打つと、男性器などの成長も止まるらしい……と噂で聞いていたから、マセガキだった俺が断固拒否して難を逃れたのよ(笑)

 テレビ局のセキュリティーも今ほど厳しくなかったこともあり、“誘拐未遂事件”も。

フィンガー5の関係者と名乗ってテレビ局に入ってきた女性に無理やり連れだされそうになったことも。そんな死ぬ気で働いて当時の月給は50万円ほど。

 俺らが物販を始めたタレントの先駆けなんだけど、サングラスや文房具、ぬり絵なんかも出して億単位で稼いでいただろうに、事務所はどんだけピンハネしていたんだって感じだよね

 そんな芸能活動に疲れ果てたこともあり、人気絶頂だった'75年に日本での活動を休止しアメリカに渡ることに。

中学1年生で体重が30キロ台しかなく、あばら骨が見えるほどガリガリにやせ細っていたし、あのまま活動を続けていたら本当に死んでいたと思う。でも当時の芸能界は入れ替わりが激しかったから、半年ほど日本から離れただけで人気がなくなって、芸能界から離れることにしたんだ